水平社
1921(大正10)年秋、西光万吉をはじめ、阪本清一郎、駒井喜作、米田富らが中心となり、それまでの長く厳しい部落差別の解消をめざして、人間の尊厳と平等をうたい上げ、奈良県南葛城郡掖上村に全国水平社創立事務所がもうけられました。
これより以前の1920(大正9)年5月15日、すでに西光万吉、阪本清一郎の2人は駒井喜作らとともに、掖上村で燕会という青年団体をつくり、解放運動を行っていました。同じような動きが各地に芽生えており、それらが全国水平社創設の基盤となったといえます。
1922(大正11)年3月3日、京都市岡崎公会堂で全国水平社創立大会が開かれました。
差別に苦しめられ続けてきた被差別部落の人たちが人権の回復のために、全国的結集を成し遂げ、3,000人を超す人々が集まりました。魂の奥底からの、人間解放のための闘いがはじまったのです。
大会では、�@差別からの解放は部落民自らの力で勝ちとらなければならない。
�Aそのために全国の部落民が団結しなければならない。と呼びかけ、「人間は勦るべきものじゃなく尊敬すべきものだ」という人間観から、人間が尊重しあうことを通じて、人の世の熱と光、自由・平等を求め訴えました。このとき、高らかにうたいあげられた水平社宣言は、日本で最初の人権宣言と言われ、解放運動の魂として生き続けています。平和と人権の確立をめざす部落解放運動の原点が、全国水平社にあることは言うまでもなく、その歴史と精神は、水平社運動に身を投じた先人たちのの闘いによって培われてきたものです。
水平社宣言は、自らの力で平等の権利を勝ちとることによって「人類最高の完成」(綱領)をめざしたものでした。
水平社の象徴である荊冠旗の発案と、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」の言葉ではじまり、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とくくられる水平社宣言の起草者は西光万吉であり、水平社と命名したのは阪本清一郎でした。
水平社の創立は、部落解放運動の歴史にとって画期的な出来事であり、それまで露骨な差別に虐げられてきた人々は、差別に対する激しい抗議を行ないました。
封建的な生活と観念が変わらぬ限り、部落民に対する賤視や差別も消えないと考えた水平社運動は、労働・農民運動や、婦人解放運動、普通選挙権獲得運動などとつながる民主主義運動のひとつでした。
水平社創立大会の参加者が郷里に帰ると、次々と、黒字に赤く荊冠を染め抜いた旗を揚げて、地域の水平社が生まれていきます。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」、各地の水平社の活動は燃えあがっていったのです。
「大阪朝日新聞」は1923(大正12)年3月4日付けの紙面で、「思想的傾向を帯びた水平運動の白熱化」との見出しで、「最近に至り運動は漸次白熱化し、昨今、海草郡、有田郡、日高郡各地方に猛烈なる叫びが起こり、熊野方面に及ばんとしてゐる」と報じています。
このように県内でも水平社結成の気が熟していた同年5月17日、和歌山県水平社が誕生しました。
徳川家創建の和歌浦東照宮の祭礼日である和歌祭の当日、市民公会堂(現 児童女性会館)で創立大会が開催されましたが、この5月17日という日は、近世賤民制を固定したとされる徳川家に対する糾弾の意味が込められていました。同様に水平社運動は各府県において展開されていきますが、差別をなくし、人権を確立するこの運動は荊冠旗が表すように、厳しいものでした。しかし差別の解消に向けた人々の力は大きなうねりとなっていきました。
その後、日中戦争勃発による戦時体制への突入で、軍国主義政権の下、人権というものは完全に無視され、水平社運動はもとより、ほとんどの民主主義運動は抑圧されていきますが、戦後、差別をなくすための運動は多くの先人たちの努力によって、新たな息吹を取り戻し、人々の願いとともに広く展開されるようになっていきます。
水平社宣言に貫かれている人間への深い愛情、人間に光あれとする志は、今なお差別をなくすための運動に脈々と受け継がれています。
これより以前の1920(大正9)年5月15日、すでに西光万吉、阪本清一郎の2人は駒井喜作らとともに、掖上村で燕会という青年団体をつくり、解放運動を行っていました。同じような動きが各地に芽生えており、それらが全国水平社創設の基盤となったといえます。
1922(大正11)年3月3日、京都市岡崎公会堂で全国水平社創立大会が開かれました。
差別に苦しめられ続けてきた被差別部落の人たちが人権の回復のために、全国的結集を成し遂げ、3,000人を超す人々が集まりました。魂の奥底からの、人間解放のための闘いがはじまったのです。
大会では、�@差別からの解放は部落民自らの力で勝ちとらなければならない。
�Aそのために全国の部落民が団結しなければならない。と呼びかけ、「人間は勦るべきものじゃなく尊敬すべきものだ」という人間観から、人間が尊重しあうことを通じて、人の世の熱と光、自由・平等を求め訴えました。このとき、高らかにうたいあげられた水平社宣言は、日本で最初の人権宣言と言われ、解放運動の魂として生き続けています。平和と人権の確立をめざす部落解放運動の原点が、全国水平社にあることは言うまでもなく、その歴史と精神は、水平社運動に身を投じた先人たちのの闘いによって培われてきたものです。
水平社宣言は、自らの力で平等の権利を勝ちとることによって「人類最高の完成」(綱領)をめざしたものでした。
水平社の象徴である荊冠旗の発案と、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」の言葉ではじまり、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とくくられる水平社宣言の起草者は西光万吉であり、水平社と命名したのは阪本清一郎でした。
水平社の創立は、部落解放運動の歴史にとって画期的な出来事であり、それまで露骨な差別に虐げられてきた人々は、差別に対する激しい抗議を行ないました。
封建的な生活と観念が変わらぬ限り、部落民に対する賤視や差別も消えないと考えた水平社運動は、労働・農民運動や、婦人解放運動、普通選挙権獲得運動などとつながる民主主義運動のひとつでした。
水平社創立大会の参加者が郷里に帰ると、次々と、黒字に赤く荊冠を染め抜いた旗を揚げて、地域の水平社が生まれていきます。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」、各地の水平社の活動は燃えあがっていったのです。
「大阪朝日新聞」は1923(大正12)年3月4日付けの紙面で、「思想的傾向を帯びた水平運動の白熱化」との見出しで、「最近に至り運動は漸次白熱化し、昨今、海草郡、有田郡、日高郡各地方に猛烈なる叫びが起こり、熊野方面に及ばんとしてゐる」と報じています。
このように県内でも水平社結成の気が熟していた同年5月17日、和歌山県水平社が誕生しました。
徳川家創建の和歌浦東照宮の祭礼日である和歌祭の当日、市民公会堂(現 児童女性会館)で創立大会が開催されましたが、この5月17日という日は、近世賤民制を固定したとされる徳川家に対する糾弾の意味が込められていました。同様に水平社運動は各府県において展開されていきますが、差別をなくし、人権を確立するこの運動は荊冠旗が表すように、厳しいものでした。しかし差別の解消に向けた人々の力は大きなうねりとなっていきました。
その後、日中戦争勃発による戦時体制への突入で、軍国主義政権の下、人権というものは完全に無視され、水平社運動はもとより、ほとんどの民主主義運動は抑圧されていきますが、戦後、差別をなくすための運動は多くの先人たちの努力によって、新たな息吹を取り戻し、人々の願いとともに広く展開されるようになっていきます。
水平社宣言に貫かれている人間への深い愛情、人間に光あれとする志は、今なお差別をなくすための運動に脈々と受け継がれています。
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