労農運動との結合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:19 UTC 版)
結成当初の水平社は、差別を古くからの因習によるものととらえ、差別者に対する「徹底的糾弾」方針をとっていたが、糾弾闘争の進展は一方で部落の内外の溝を深めるとの反省が出てきた。その一方でアナ・ボル論争などの影響から、1923年11月松田喜一ら若手活動家を中心に結成された全国水平社青年同盟(のち1925年9月「全国水平社無産者同盟」に改組)が階級闘争主義と労農水提携(労農運動と水平社運動の提携)を掲げいわゆる「ボル派」として全水内部で次第に力を増してきた。全水のボル派は、1924年11月、南・平野小剣ら従来の幹部を「スパイ問題」(南・平野らが警察幹部と交際があったというもの)を理由に辞任に追い込み全水本部の主導権を掌握(その後委員長には松本治一郎が就任)、1926年(大正15年)の第5回大会では「部落差別は政治・経済・社会的側面に基づく」との認識に基づき、軍隊内差別や行政による差別を糾弾し労働者・農民の運動と結合する新方針が決議された。
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