労農赤色海軍時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:11 UTC 版)
「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「労農赤色海軍時代」の解説
「パーミャチ・メルクーリヤ」は、1920年11月22日に労農赤軍部隊によって奪取されたが、この時点で完全に稼動できない荒廃した状態にあった。修理に入れられたのち、1921年にウクライナ社会主義ソビエト共和国ならびにクリミア自治ソビエト社会主義共和国共同の黒海海軍に編入された。類別は、 1 等巡洋艦とされた。1922年5月6日には、「パーミャチ・メルクーリヤ」を練習艦級の戦闘単位として復元すべしとする決議が艦隊革命戦時委員会によって出された。 艦船の修復工事において、爆破されて完全に機能を失った動力装置の復旧は鬼門であった。しかし、「コミンテルン」にだけは救いの手が差し伸べられた。1922年に解体された姉妹艦「ボガトィーリ」から、機関シリンダーと諸部品が「コミンテルン」修復のために提供されたのである。このほか、解体が決定された戦列艦「エフスターフィイ」や「イオアン・ズラトウースト」からも必要部品や配管系が提供された。1922年11月16日には、南西戦線作戦分遣隊所属の警備艇「ラズヴェートチク」が、「パーミャチ・メルクーリヤ」所属となった。 1922年12月31日付けで、艦名はコミンテルンを記念した、その名もコミンテルン(«Коминте́рн»)という共産主義的な名称に改められた。この艦名は、プロレタリア革命と労農赤色海軍建設における水兵らの献身への記念であった。 武装も変更されたが、当初は元の連装砲塔も使用されて 14 門の 55 口径 130 mm 艦載カノン砲 B-7(ロシア語版) が搭載された。やがて連装砲塔が撤去されて露天で防盾の付いた単装砲架に置き換えられるなどし、 130 mm 艦載カノン砲 B-7 の搭載数は 8 門に減ぜられた。 1923年9月8日には、復旧工事は完了した。同年11月7日付けで練習巡洋艦に類別を変更され、同日付で再就役した。1925年には、革命記念映画『戦艦ポチョムキン』の一部のシーンが、「コミンテルン」を利用して撮影された。 1941年6月からは、機雷敷設艦として使用されるようになった。1942年7月16日にポチ港に停泊中にドイツ空軍機の空襲を受け、大破した。 1942年8月から9月にかけて、沿岸砲台へ砲を提供するため武装解除を受けた。「コミンテルン」の武装は、第 743・744・746・747 沿岸砲兵中隊に 2 門ずつの 130 mm 砲、第 173 沿岸砲兵中隊に 3 門の 76.2 mm 砲、第 770 沿岸砲兵中隊に 3 門の 45 mm 砲が提供された。これらの部隊はトゥアプセへの進入路に陣地を構え、防衛任務に就いた。一方、船体は防波堤をなす閉塞船としてホビ川(グルジア語版)河口に沈められた。1943年2月2日付けで、労農赤色海軍艦船名簿(英語版)から除籍された。1946年3月31日には、ソチから移動した第 626 対艇砲熕砲兵中隊が船体上に設置された。
※この「労農赤色海軍時代」の解説は、「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の解説の一部です。
「労農赤色海軍時代」を含む「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事については、「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の概要を参照ください。
- 労農赤色海軍時代のページへのリンク