権力分立 (日本)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 06:27 UTC 版)
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日本における権力分立(にほんにおけるけんりょくぶんりつ)では、日本国憲法によって規定される日本国政府(行政権)、国会(立法権)および裁判所・最高裁判所(司法権)による権力分立を解説する。
前史
古くから、中国と日本を含めたその周辺諸国ではすべての権力を君主あるいはその時々の政権に集中させていた。このため、明治以前の日本では、立法権と行政権、司法権はほぼ同じ機関が担った。江戸幕府の役職である町奉行(江戸町奉行)が、江戸市中に施かれる法を定立し、行政活動を行い、民事・刑事の裁判も行っていたことは、その典型である。
こうした性格は実際の裁判にも影響を与えた。すなわち、中国の伝統的な民事裁判においては、民が官に対して請願を行い、それに対して官が請願の是非を判断する裁許という形で一種の行政処分を行う「父母官型訴訟」と呼ばれる権力者の徳治思想に基づいた世話焼き・恩恵行為に過ぎなかった。さらにその制度を取り入れた古代日本の民事裁判では中国のような徳治思想は希薄で、被告が直属する官司・組織との日常的支配関係に依拠して提起されることが多く、被告から見て上位者にあたる裁許者も提訴を受けたことによって受け身の形で裁許を行ったとされ、中世に入っても領主が警察・刑事裁判に相当する検断権の確保には積極的であってもそれ以外の裁判に対する関心は低く、もっぱら原告・被告双方が持つ縁を頼る形での提訴・訴訟が展開されていた。日本や中国においては裁許者に求められたのは、強制力を持つ「判決」を出すことではなく、請願の是非を「裁許」の形で下し当事者間交渉を促すことにあった[1]。
日本に近代的な権力分立の思想が入ってきたのは幕末である[2]。
1868年(明治元年)、五箇条の御誓文を実行するために出された政体書には「天下の権力、総てこれを太政官に帰す、則政令二途出るの患無らしむ。太政官の権力を分つて行法、立法、司法の三権とす、則偏重の患無らしむるなり」として、三権分立主義をとることが明記された。
しかし当時は、裁判こそが行政の最大の役割であると考えられており、1872年(明治5年)に司法卿・江藤新平が欧米に倣って、行政権と司法権を分離させる制度の構築を図ったところ、特に地方行政の担い手である地方官から猛反発が起きた。たとえば、京都府からは「仰地方の官として人民の訴を聴くこと能はず、人民の獄を断ずるを能はず、何を以て人民を教育し、治方を施し可申哉」(地方官が民事訴訟をしてはいけない、刑事裁判をやってはいけないと言うが、ではどうやって人々を教育して地方を治めろというのか)と抗議(明治5年10月21日付京都府届)が行われ、諸府県からも同様の抗議が殺到したという[3]。
また、1875年(明治8年)に終審裁判所である大審院が設置されたあとも、大審院の判決に司法卿が異議申し立てをする権利を保留する(江藤はすでに佐賀の乱で処刑されている)など問題が多く、のちの自由民権運動でも国会開設問題(立法権の政府からの分離要求)と並んで政府批判の材料とされた。
大日本帝国憲法下の権力分立
1890年(明治23年)、大日本帝国憲法が施行され、帝国議会の成立と裁判所構成法の制定により、日本に権力分立の体制が整う。すべての権力(統治権)は天皇が総攬し(大日本帝国憲法第4条)、立法権は帝国議会の協賛をもって天皇が行使し(大日本帝国憲法第37条)、司法権は天皇の名において裁判所が行使し(大日本帝国憲法第57条)、行政権は国務大臣の輔弼により天皇が行使する(大日本帝国憲法第55条)、という権力分立制だった[要出典]。
立法権は、帝国議会の協賛を経ずとも、緊急命令(大日本帝国憲法第8条)と独立命令(大日本帝国憲法第9条)によっても行使された。後年には軍部が統帥権と軍部大臣現役武官制を梃子に、ほかの三権から遊離して増長し、暴走する事態ともなった。
大日本帝国憲法下の司法権の独立については、制度上も実際上も比較的実現されていた[4]。
なお、大日本帝国憲法においては、行政庁の処分の違法性を争う裁判(行政裁判)の管轄は司法裁判所にはなく、行政庁の系列にある行政裁判所の管轄に属していた。この根拠については、伊藤博文著の『憲法義解』によると、「行政権もまた司法権からの独立を要する」ことに基づくとされている。これに対して、江藤新平は明治初頭に「司法権もまた行政権からの独立を要する」もので、行政裁判といえども行政が裁判に関わるのは司法権の独立に対する侵害であるという論理を主張している。
日本国憲法下の権力分立

1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法は、アメリカに倣った厳格な三権分立と、イギリスや大正デモクラシー期の議院内閣制を折衷した三権分立制をとっている。また、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(日本国憲法第1条)とされ、「国政に関する権能を有しない」(日本国憲法第4条1項)ものとされた。天皇の「国事」に関するすべての行為(国事行為)には、内閣の「助言と承認」を必要とし、内閣がその責任を負うこととされた(日本国憲法第3条)。一方で、日本国憲法が三権分立を規定していないという解釈も成り立つというのが通説となっており、その場合は「国権の最高機関」である立法権が優位に立った上で、大英帝国の議会主権制や旧ソ連の民主集中制にも通じる一元的構造と理解される。
三権の帰属
- 国会は、「国権の最高機関」であって、「唯一の立法機関」とされている(日本国憲法第41条)。また、「唯一の立法機関」と定められたことから、国会中心立法の原則と国会単独立法の原則が導かれる。国会中心立法の原則とは、国会による立法以外の実質的意味の立法は、憲法に特別の定めがある場合を除き、許されないという原則である。その例外には、議院規則制定権(日本国憲法第58条2項)や最高裁判所規則制定権(日本国憲法第77条)がある。内閣が定める政令は、個別具体的な委任による立法のみが許される。
- 国会単独立法の原則とは、国会による立法は、国会以外の機関の参与を必要とせずに成立する原則をいう。その例外としては、日本国憲法第95条の地方自治特別法がある。内閣の法案提出権は、国会の審議採決を妨げず、また、72条に議案提出権が定められているため、許されると解される。
- 「行政権は、内閣に属する」(日本国憲法第65条)。ほかの二権が、「唯一の」(日本国憲法第41条)あるいは「すべての」(日本国憲法第76条)とされているのに対し、単に「属する」と定められたことは、三権分立が行政権にとっては抑制原理(ほかの二権にとっては防衛原理)とされていることを意味すると解される。内閣は、「首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣」で組織される(日本国憲法第66条1項)。内閣総理大臣は、「国会議員の中から国会の議決で、これを指名(内閣総理大臣指名選挙)」(日本国憲法第67条1項)され、天皇に任命される[5]。国務大臣は、内閣総理大臣によって指名・任命され、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から任命される。このように、内閣総理大臣を国会議員の中から国会が指名し、内閣が行政権行使について「国会に対し連帯して責任」を負う(日本国憲法第66条3項)ことから、議院内閣制がとられているものと解される。
- 全ての司法権は、最高裁判所と下級裁判所からなる裁判所に属することとされ、最高裁判所は終審裁判所とされる(日本国憲法第76条1項)。特別裁判所(憲法裁判所、軍法会議、行政裁判所、皇室裁判所など)の設置は禁止され、行政機関が終審として裁判を行うことはできない(日本国憲法第76条2項)。司法権の行政権からの独立を確立するため、司法行政権は司法権の一部として裁判所に帰属することになった。また、行政裁判所は廃止され、通常の裁判所が行政事件を管轄する。さらに、最高裁判所は「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」とされた(日本国憲法第81条)。これは、最高裁判所および下級裁判所が、違憲立法審査権を有することを意味すると解されている。
三権の関係
内閣と国会の関係は議院内閣制がとられる。内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決で指名する(内閣総理大臣指名選挙。首班指名とも呼ばれる)(日本国憲法第67条1項)。また、内閣総理大臣は国務大臣を任命するが、その過半数は国会議員の中から選ばれなければならない(日本国憲法第68条1項)。内閣総理大臣その他の国務大臣には議院出席の権利・義務が認められている(日本国憲法第63条)。
内閣は行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負い(日本国憲法第66条3項)、衆議院で内閣不信任決議が可決(あるいは信任決議が否決)されたときは内閣は10日以内に総辞職か衆議院の解散・総選挙を選ばなければならない(日本国憲法第69条)。一方、内閣は衆議院を解散する権限を有していると解されている(なお、解散権の実質的根拠については争いがある)。内閣総理大臣が欠けたとき、または衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならない(日本国憲法第70条)。
この他、国会の両議院には国政調査権が付与され(日本国憲法第62条)、この権限を適切に行使することにより、国会には内閣の行動を監視・監督する機能も期待されている。
一方、国会・内閣と裁判所との関係においては日本でも司法権の独立の原理が採用される[6]。すべて裁判官はその良心に従い独立してその職権を行い、憲法および法律のみに拘束されると規定されている(日本国憲法第76条3項)。
国会から裁判所に対する抑制としては弾劾裁判があり、著しい職務上の義務違反や非行などのあった裁判官は、国会議員で構成される裁判官弾劾裁判所が弾劾する(日本国憲法第64条)。一方、裁判所は国会の制定した一切の法律の憲法適合性を審査する違憲立法審査権を有するとされている(日本国憲法第81条)。
内閣から裁判所に対する抑制としては、裁判官の任命権(最高裁判所長官については指名権)がある。最高裁判所長官は天皇が内閣の指名に基づいて任命し(日本国憲法第6条2項)、最高裁判所の長官以外の裁判官は内閣でこれを任命する(日本国憲法第79条1項)。最高裁判所裁判官の任命については、その発足当初、裁判官任命諮問委員会の答申に基づいて任命が行われていたが、内閣の責任を不明確にするものとの批判があったとして廃止された経緯がある[7]。この点については常設的な委員会の設置は憲法の趣旨に反するとみる学説もあるが、公平で非党派的な選考委員会が実質的任命を行うような制度にすべきとの学説が対立し議論がある[7]。なお、現在は、最高裁判所事務総局・最高検察庁・日本弁護士連合会などが最高裁判所裁判官の候補者を推薦し、内閣がこれを追認する形で任命が行われている。また、最高裁判所長官については前任の最高裁判所長官の推薦に基づいて任命が行われている。
下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣で任命する(日本国憲法第80条1項前段)。憲法解釈上は、明白な任命資格要件の欠如の場合を除いて内閣は任命拒否できないと解されている[8]。実務上も裁判官の空席の数に形式的に一人を加えた名簿が作成されて任命が行われており、また実質的に指名された者が任命を拒否された例はないとされている[8]。
脚注
注釈
出典
- ^ 佐藤雄基『日本中世初期の文書と訴訟』(山川出版社、2012年) ISBN 978-4-634-52348-7)P184-185・281-282
- ^ 清宮四郎 1979, p. 104.
- ^ 横山晃一郎「刑罰・治安機構の整備」(所収:福島正夫 編『日本近代法体制の形成』上巻(日本評論社、1981年) ISBN 978-4-535-57112-9)P310
- ^ 清宮四郎 1979, p. 42.
- ^ 被指名者がどんなに問題のある人物だったとしても、天皇は任命要求を拒否出来ない。
- ^ 野中俊彦 et al. 2006, p. 229.
- ^ a b 野中俊彦 et al. 2006, p. 239.
- ^ a b 野中俊彦 et al. 2006, p. 247.
参考文献
- 芦部信喜、高橋和之『憲法』(第5版)岩波書店、2011年。ISBN 9784000227810。
- 浦部法穂『憲法学教室』(全訂第2版)日本評論社、2006年。 ISBN 4535515190。
- 大石眞『憲法講義I』有斐閣、2004年。 ISBN 9784641129566。
- 清宮四郎『憲法I』(第3版)有斐閣、1979年。 ISBN 9784641007031。
- 小林直樹『憲法講義』 下巻(新版)、東京大学出版会、1981年。 ISBN 4130320572。
- 橋本五郎、飯田政之、加藤秀治郎『Q&A日本政治ハンドブック : 政治ニュースがよくわかる!』一藝社、2006年。 ISBN 4901253794。
- 野中俊彦、中村睦男、高橋和之、高見勝利『憲法II』(第4版)有斐閣、2006年。 ISBN 978-4641130005。
- 毛利透、小泉良幸、淺野博宣、松本哲治『統治』(5版)有斐閣〈LEGAL QUEST, . 憲法 1〉、2011年。 ISBN 9784641179134。
- 山内敏弘『憲法I』法律文化社、2004年。 ISBN 4589027461。
- 飯尾潤『日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ』中央公論新社(中公新書)、2007年。 ISBN 9784641049772。
関連項目
外部リンク
- 権力分立_(日本)のページへのリンク