政党誕生後の権力分立化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:00 UTC 版)
1881年に国会開設の詔が発布され、その後、政党が誕生し、1890年に大日本帝国憲法が施行されて帝国議会が設置され権力分立が行われると、内閣は超然主義の藩閥と、進歩主義 (改進主義) の改進党系と、「自由の大義に仗(よ)り改進の方策に循(したが)」うとする自由改進主義の(立憲)自由党系が占めることとなった。保守政党としては「秩序と進歩の並行を求め」ることを標榜した立憲帝政党があったものの、すぐに解散している。 当時の日本において、政党の区分けは「守旧とは守るに極端にして頑然旧例を固守するものなり、急進とは進むに極端にして進取に鋭意し他を顧みるに遑あらざるものなり、保守とは敢て進まざるにあらずと雖も進歩の中にも秩序を保つを以て第一義とし、改進とは敢て守らざるに非ずと雖も只管現状を改良するを以て第一義と為すものなり」とされていた。また、保守は集権、外交、興産政策を取る傾向にあり、改進 (進歩) は分権、通商、興産不干渉の政策を取る傾向にあるとされていた。 1900年、伊藤博文は与党として立憲政友会を結成し、日本の政党政治が開始されたが、立憲政友会は旧自由党系の人物が大半を占めており、その綱領には「航海貿易を盛に」「地方自治」などの進歩主義の内容となっていた。
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