政党連合から正式合併へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:00 UTC 版)
「左翼党 (ドイツ)」の記事における「政党連合から正式合併へ」の解説
WASGと左翼党-民主社会党の政党連合「左翼党」は2005年9月18日の連邦議会選挙で、約8%(前回の民主社会党(PDS)は4%)の得票を得て議席獲得に必要な5%の枠を突破。54議席を獲得し(うちWASG12、左翼党-民主社会党42)、事実上の議会第4党に躍り出た。 政党連合「左翼党」に参加する両政党の組織完全統合・単一政党化準備に向けてPDSは2005年7月に左翼党-民主社会党と改称していた。さらにその後、WASGのオスカー・ラフォンテーヌが左翼党-民主社会党に入党、逆に左翼党-民主社会党のグレゴール・ギジがWASGに入党し、お互いに二重党籍になるなど両党の融合を進めていった。こうして両党は統合のプロセスに約2年間をかけたが、その間には2006年9月のベルリン市(州と同格)議会選挙においてドイツ社会民主党のクラウス・ヴォーヴェライト市長政権へ左翼党-民主社会党が連立与党入りすることに反対するWASGのベルリン組織(トロツキストの「社会主義オルタナティブ」の影響が強かった)が独自に出馬し、分裂選挙となる一幕もあった(この選挙でWASGは議席を獲得できず、左翼党-民主社会党も大幅に得票を減らした)。 こうした紆余曲折を経たものの2007年6月17日に正式に両党は合併し、単一政党としての「左翼党」が発足した。そのなかで両党出身者のほか新左翼からも参加者があり、幅広い左翼の統一戦線政党としての性格が強まった。いっぽう両党の合併を最終的に決める党員投票においては、左翼党-民主社会党の側はほとんどの党員が賛成したのに対し、WASGからは辛うじて過半数を上回るにとどまるなど、両党のあいだには最後まで温度差もあった。 このように現在、同党は開かれた左翼政党であって旧来式の前衛党型組織論を有するマルクス・レーニン主義に基づく共産党からの変貌を遂げたが、党内にはなお旧来のスターリン主義に固執するグループ(共産主義プラットフォーム)も派閥として残存するとされ、同グループは連邦憲法擁護庁から監視対象とされている。 初代党首(共同党首)は、ロタール・ビスキー旧PDS党首とオスカー・ラフォンテーヌ元蔵相。2005年の連邦議会選挙後には、ビスキーが副議長候補に指名されたが、シュタージ(東ドイツ国家保安省)との関係が取りざたされて、本人は関係を否定したものの副議長就任を断念した。このように、特に旧PDS出身者に対してはかつての東ドイツ時代の活動に対する疑念が持たれる場合が多く、上記の憲法擁護庁による監視の理由ともなっている。 前身のPDSは2004年6月の欧州議会選挙では、ドイツに割り当てられた99議席中7議席を獲得した。現在の左翼党はこれを引き継ぎ、欧州の左派政党で結成した欧州左翼党及びその院内会派である「欧州左翼党-ノルディック環境左派同盟」内では、最大の議員数となっている。欧州左翼党の議長には、ビスキーが就任している。 メクレンブルク=フォアポンメルン州の州都・シュヴェリーン市長を務めるアンゲリカ・グラムコウ(de)が、ドイツ国内唯一の左翼党員首長となっている。
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