とうごう‐へいはちろう〔トウガウヘイハチラウ〕【東郷平八郎】
【東郷平八郎】(とうごうへいはちろう)
明治中期に活躍した旧日本海軍の提督。(1848年生~1934年没)
生涯最終の階級・位階・勲等・功級・爵位は、元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。
薩摩国鹿児島郡加治屋町(現:鹿児島市)出身。
少年時代に薩摩藩士として薩英戦争に参加し、以来戊辰戦争で薩摩軍艦に乗り込んでさまざまな海戦に参加。五稜郭の戦いでは五稜郭への艦砲射撃も行った。
明治維新後、新政府海軍に士官として入隊。明治4年(1871年)から11年(1878年)までイギリスに留学、帰国後の明治12年(1879年)12月に海軍少佐に昇格した。
日清戦争では巡洋艦「浪速」の艦長として参戦、戦争後一時期病床に臥すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官、明治34年には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官を歴任した。
そして日露開戦前の緊迫時期に海軍大臣・山本権兵衛に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命され、明治37年(1904年)2月の日露戦争では戦艦「三笠」に座乗、ロシア太平洋艦隊の根拠地・旅順への攻撃や黄海海戦をはじめとする海軍作戦全般を指揮、同年6月に海軍大将に昇進する。
翌明治38年(1905年)5月、日本海海戦においてヨーロッパから極東に回航してきた第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を迎撃。
東郷は「丁字戦法」や「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を用いてバルチック艦隊を撃破し、日本海軍を勝利に導いた。
この海戦での勝利は世界の注目を集め「アドミラル・トーゴー」としてその名は広く知られるようになった。
また同盟国だったイギリスのジャーナリストは「東洋のネルソン」とイギリスの国民的英雄に比して称えている。
その後、軍令部長、東宮御学問所総裁などの要職を歴任。
1913年(大正2年)には元帥府に列せられ、以後、最先任将校として海軍に大きな影響をもたらした。
昭和9年(1934年)5月、膀胱ガンにより満86歳で逝去。逝去直前に侯爵となり、国葬で葬られた。
東郷平八郎
東郷平八郎
東郷平八郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/18 15:16 UTC 版)
※この「東郷平八郎」の解説は、「日本海軍戰記 怒濤」の解説の一部です。
「東郷平八郎」を含む「日本海軍戰記 怒濤」の記事については、「日本海軍戰記 怒濤」の概要を参照ください。
東郷平八郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/08 09:42 UTC 版)
※この「東郷平八郎」の解説は、「蒼海の世紀」の解説の一部です。
「東郷平八郎」を含む「蒼海の世紀」の記事については、「蒼海の世紀」の概要を参照ください。
東郷平八郎(とうごう へいはちろう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:44 UTC 版)
「昭和天皇物語」の記事における「東郷平八郎(とうごう へいはちろう)」の解説
帝国海軍元帥。元・薩摩藩士。乃木希典の遺言により、東宮御学問所の総裁を打診される。「乃木にはなれない」という理由で一度断るが、天皇である嘉仁の勅命で総裁を拝命する。教育方針を巡り御用掛達とは度々衝突していたが、総裁就任4年を経て乃木が東宮御学問所を創ろうとしたのは「必ずや天皇に即位する裕仁を世界に恥じぬ日本人にしたい」からであると理解する。
※この「東郷平八郎(とうごう へいはちろう)」の解説は、「昭和天皇物語」の解説の一部です。
「東郷平八郎(とうごう へいはちろう)」を含む「昭和天皇物語」の記事については、「昭和天皇物語」の概要を参照ください。
東郷平八郎と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
江戸時代の人物 | 各務支考 小泉斐 東郷平八郎 鳳潭 杉原嘉中 |
幕末の人物 | 原六郎 松平宗秀 東郷平八郎 藤村紫朗 西郷鷹 |
日本の海軍軍人 | 松平保男 田村久三 東郷平八郎 川村純義 末次信正 |
大日本帝国海軍軍人 | 扇 一登 高柳儀八 東郷平八郎 川村純義 末次信正 |
幕末維新側人物 | 中山忠光 所郁太郎 東郷平八郎 藤村紫朗 山本権兵衛 |
日本の伯爵 | 梨本徳彦 陸奥宗光 東郷平八郎 佐久間左馬太 長谷川好道 |
明治時代の人物 | 河上彦斎 永山武四郎 東郷平八郎 和久正辰 本野盛亨 |
日本の神 (人物神) | 珍彦 永山武四郎 東郷平八郎 伊藤博文 児玉源太郎 |
貴族院侯爵議員 | 木戸幸一 華頂博信 東郷平八郎 伊達宗彰 伊藤博文 |
- 東郷平八郎のページへのリンク