東京オリンピック後
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この後は、日本スポーツ界全体のリーダーの一人としても活躍。1972年、日本で初めて行われた冬季オリンピック札幌大会では、冬季オリンピックに実績が無い日本チームの強化に1966年から五ヵ年計画を立て強化を進めた。オリンピックの日本選手団の役員は、習慣で日本スポーツ界の中核を成してきた陸上・水泳が中心を占めてきたが、バレーボール界として初めてメキシコ、ミュンヘン両オリンピックで役員・選手団総監督に就く異例の出世を遂げた。メキシコでは主要競技の不振はあったが、金メダルは前回に続く世界第3位を確保し男女バレーボールも銀、ミュンヘンでは男子バレーボールチームを金メダルに導き、総監督としても面目を保った。 アジアバレーボール連盟や女子の世界選手権の発展にも貢献。バレーボールは当時共産圏の国が強く、ボイコット問題など運営は困難を伴ったが、この時代の前田理事長・今鷹副理事長コンビの獅子奮迅の活躍ぶりは、日本、アジア、ひいては世界のバレーボールの発展に大きく寄与した。 共産国の国名呼称問題で多くの国が開催を返上し、急遽日本で初めて開催される事になった1967年の第5回女子世界選手権では、NHKと意思の疎通を欠いて絶縁され、テレビ放映がNET(現・テレビ朝日)となった。「アマチュア団体が金でスポーツを売った」と激しく叩かれ、さらに相次ぐボイコットでお客も集まらず大会は失敗に終わった。のちにNHKとは和解をした。この時の責任を取って副会長(日本バレーボール協会)になったのを始め、注目度を増したバレーボール界に於いて、アマチュア問題などつどつど起こる世論からの批判で役名は変えたが仕事はあまり変わらず、日本バレーボール界の最高責任者の地位を長く保った。激務からか根回し工作に若干の不備はあったものの他の人ではうまくいかない面があり、1970年の今鷹急逝後は前田-松平ラインでその地位を保った。 アジアバレーボールのリーダーとして中国ともスポーツを通じて早くから交流、中国のチーム作りに積極的に協力した。1970年には、日中国交回復前に政治に先んじて、全日本男女チームの中国遠征を団長として率いスポーツ外交を成功させ、日本バレーボール界の歴史的1ページとした。中国ではいまなお「基礎作りに力を貸してくれた恩人」として大松とともにその功績を高く評価している。 1970年から始まった「全国高等学校バレーボール選抜優勝大会(春高バレー)」は、それまで高校選手の強化面で問題があったことを憂いた前田と松平康隆(当時協会副理事長)が創設に奔走し、高校野球に匹敵するアマチュアスポーツ事業を実施したいというフジサンケイグループと前田との初会合を経て創設が決まったもの。1972年ミュンヘンオリンピック直後に起こった金メダリスト全日本男子の"アマチュア騒動"で引責辞任したが、その後協会財政のジリ貧、バレー人気、さらにモントリオールオリンピック(1976年)、日本で初開催することになったバレーボールワールドカップ(1977年)など、重要問題に対処するため1975年専務理事に復帰。大古誠司の全日本復帰問題など諸問題がまた持ち上がったが、ワールドカップでは協会側の担当責任者・実行委員会委員長として運営に奔走、フジテレビの運営の巧さもあって大会が大盛況に終わり、ワールドカップ日本恒久開催に繋げた。ワールドカップの成功は、日本バレーボール協会が国際バレーボール連盟の中枢を占める切っ掛けとなった。戦後日本のバレーボールの隆盛は前田の努力に負うところが大である。 1976年から1983年まで国際バレーボール連盟副会長(のち終生名誉副会長)。1977年から1985年までアジアバレーボール連盟会長。その後は、これらの要職を腹心の松平に序々にバトンタッチし、一線を退いた。 情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で大松博文、猫田勝敏と並んで3人のうちの1人に数えられ、「日本のバレーボールの普及・発展に長年にわたり貢献した功労者。日本のバレーボールの育ての親といっても過言でない」と評されている。
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