メキシコオリンピックで途中棄権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 06:32 UTC 版)
「アベベ・ビキラ」の記事における「メキシコオリンピックで途中棄権」の解説
再度の金メダルにより、アベベは少尉に昇進する。また、親衛隊の体育教官補佐ともなった。このときアベベに貸与された自動車(フォルクスワーゲン・ビートル)がのちに悲劇につながることとなる。 東京オリンピック後もアベベはマラソンで優勝を重ねた。1965年には、大阪府から滋賀県にコースを移した毎日マラソンに4年ぶりに参加、28度の高温という条件のため記録は平凡だったものの、独走であった。1966年のソウル国際マラソンでも優勝したが、日本から参加した君原健二のコーチである高橋進は、レース中にアベベが監督車に乗ったニスカネンから叱責される光景を目にして、遠からずアベベも敗れるだろうという思いを抱いたと記している。1967年のサラウスマラソンでは途中棄権した。この間、中尉に昇進している。 1968年10月のメキシコシティーオリンピックでも、アベベは3大会連続でエチオピアのマラソン代表に選ばれたが、トレーニング中に左膝を痛めていた。走り込みの不足や36歳という年齢による体力の衰えもあり、史上初の五輪マラソン3連覇は不安視されていた。結局メキシコ五輪マラソン本番では16kmで歩き出し、17km地点で棄権した。なおこの大会では同じエチオピア代表で、同僚の軍人のマモ・ウォルデが優勝し、エチオピアにオリンピック・マラソン3連覇をもたらしている。結果は残せなかったが、アベベは帰国後にマモと共にハイレ・セラシエ皇帝に招かれ、その席で大尉に昇進した。
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