メキシコオリンピック代表選考
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 00:16 UTC 版)
「采谷義秋」の記事における「メキシコオリンピック代表選考」の解説
1967年4月、日本体育大学卒業後、かねてからの念願どおり高校教師となり帰郷。広島県立竹原高校に教諭として赴任。高校陸上部の監督を務めながら自身も競技を続け、各地のマラソン大会に出場し重厚なフォームでタイムを短縮した。半日で授業が終わる土曜日、勤務先の竹原から自宅まで約40キロを走って帰宅、毎朝8キロのジョギングを欠かさず、放課後も指導する陸上部員とともに走り込んだ。県内に出張すれば帰路は可能な限り走ったという。体育教諭として働き始めて1ヶ月余りで出場した第23回毎日マラソン(現びわ湖毎日マラソン)で6位。夜行列車で滋賀から広島に戻り翌日は授業に出たという。しかし、この年末の国際マラソン・レース直後から"世界のランナー・采谷"の栄光と悲劇への道がはじまる。メキシコオリンピックへの指定レース一つ目の1967年12月、第21回国際朝日マラソンで6位。デレク・クレイトンが史上初めて2時間10分の壁を破ったレースで、一気に自己記録を7分以上も縮め、代表争いに加わる。翌1968年2月、指定レース二つ目の第17回別府大分毎日マラソンでは40キロで君原健二を抜き佐々木精一郎に次ぎ2位。この別府大分毎日マラソンの後、日本陸連のマラソン部会が「指定レース三つ目の第23回びわ湖毎日マラソン終了後、日本代表3選手と補欠1人の計4人を決める」と発表。そのびわ湖毎日マラソンで采谷は、1位宇佐美彰朗に次ぎ2位となった(3位君原)。びわ湖毎日マラソン終了後、日本陸連のマラソン部会が主体の選考委員会は、もめにもめ、佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二の3人が正選手、采谷は補欠とした。しかし理事会がこれを承認せず、「4人とも同格の代表で、正補欠は7月の富士山合宿のレースで決める」と決定。理事会が選考委の決定をくつがえした理由は采谷の扱いだった。采谷は君原に二度勝っているから、君原の方が補欠にまわるのが自然だが、君原のコーチ・高橋進がマラソン部会の中でも特に発言力が強く、「佐々木、宇佐美、君原の3人にはマンツーマンのコーチがいるのに采谷にコーチはいない」「采谷は新人で伸び盛りの魅力はあるが、メキシコで走った経験がない。一方の君原は現在より向上は望めないが、メキシコ4回遠征の経験があり、空気の希薄なメキシコシティでのマラソンは、高地マラソンを体験した君原が有利。キャリアを誇るベテランを一枚加えることが絶対条件である」などと強力に君原を推したといわれる。不可解な代表選考に母校の日体大も立ち上がり「君原がウインザー・マラソン(英国)に出るなら、采谷も派遣して二人を対決させてくれ」と掛け合うが陸連は了承せず。さらに、「7月の富士山合宿のレースで正補欠を決める」としていたのに「エントリー締め切り日(競技3日前)にもっとも調子のいい選手を出す」と方針を変えた。このような決定は補欠の采谷に大きな心理的負担となった。マラソンコーチには貞永信義が付いたのだが、貞永が浮き上がり、佐々木、宇佐美、君原の各コーチが自分たちのスケジュールで練習をやらせ、選手同志は口もきかない状態となった。采谷は7月のメキシコ遠征中にあった30キロと5000メートルマラソンで、それぞれ5位、9位と成績が振るわず、高地の順応性が遅いとの理由で、日本陸連は7月24日、采谷を補欠とする最終決定を発表した(オリンピックマラソン代表の選考事情)。選考レースだったはずの3レースの成績は、完全に無視された。また、当初メキシコには4人を派遣するとしていたが、2月開催のグルノーブルオリンピックで日本人選手が不振だったために、全種目に少数精鋭主義が唱えられ、最終合宿で正3選手の故障が無ければ、采谷はメキシコに派遣しない、と決まり完全に代表から外された。選考会でタイムが采谷より下だった君原健二が代表に選ばれ、君原はオリンピック本番で銀メダルを獲得した。采谷は多くの同情を集め"悲運のランナー"などと呼ばれたが、その後もコーチに付かず独力でマラソンに取り組む。
※この「メキシコオリンピック代表選考」の解説は、「采谷義秋」の解説の一部です。
「メキシコオリンピック代表選考」を含む「采谷義秋」の記事については、「采谷義秋」の概要を参照ください。
- メキシコオリンピック代表選考のページへのリンク