東京オリンピック出場・8位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 14:12 UTC 版)
「君原健二」の記事における「東京オリンピック出場・8位」の解説
東京オリンピックに際しては、日本の男子マラソン代表3人(他に円谷幸吉、寺沢徹)の中でもっともメダルに近いという下馬評だった。円谷は、どちらかといえばトラックと駅伝の選手というイメージが強く、マラソン経験が少ないことから有力候補とは目されていなかった。しかし迎えた東京五輪本番では君原はプレッシャーに押し潰され、実力を出し切れず8位に終わった(当時、オリンピックの入賞は6位までだった)。一方の円谷は銅メダルを獲得する。円谷とは代表として半年間ともに練習を重ねたことから無二の親友ともなっていたが、その晩は宿舎で床についた円谷に羨望と嫉妬と賞賛の入り交じった複雑な感情を抱き眠れなかったという。東京五輪終了後福岡に戻ってからの君原は八幡製鐵陸上部の退部届を提出するほどに落ち込んでいたが、コーチの高橋は君原の退部届を保留扱いのままにしていた。 同じ頃に箱根駅伝チーム強化をもくろむ河野洋平の肝煎りで早稲田大学入学の勧誘を受け、いったんは入学を決意。福岡から上京するが、最終的に「自分はすでに大学卒業の年齢を過ぎている」として辞退した。 東京五輪男子マラソンの失敗はしばらく尾を引きなかなか立ち直れなかったが、初めて女性からのファンレターが届いたのをきっかけに相手の女性と交流を深め、高橋コーチは二人の結婚を承諾した。結婚後の君原は次第に復帰し、1966年にはボストンマラソンのほか同年のバンコクアジア大会でも優勝を果たした(それから4年後の1970年バンコクアジア大会でも金メダルを獲得)。
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