東京オリンピック後の円谷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:09 UTC 版)
「円谷幸吉」の記事における「東京オリンピック後の円谷」の解説
東京オリンピックでのマラソン競技終了後のインタビューで、円谷は次のオリンピックではアベベに勝つ、すなわち銅メダル以上の成績を国民に約束する。円谷は後年たびたびメキシコオリンピックへの抱負を語っており、この「国民との約束」は真面目で几帳面な円谷の双肩にプレッシャーとしてのしかかることになる。 東京オリンピック後、一躍国民的英雄となった円谷は、各種の公式行事に引っ張りだこになる。1964年末から年始にかけては日本陸連の要請で南米に遠征し親善競技に参加するなど、忙しい日々を送る。 1965年5月以降、自衛隊の実業団登録と中央大学との学生登録の二重登録問題が露呈し、大会に出場できなくなる。7月、吉池自衛隊体育学校長や陸上競技関係者の尽力により二重登録問題は早期に解決され、自衛隊選手の実業団登録として大会参加していくことが決まる。二重登録問題解決後、競技に復帰するが、北海タイムスマラソンで途中棄権するなど、1965年は目立った成績を残せなかった。 1966年、円谷は久留米の幹部候補生学校に入学する。かねてから円谷は自衛隊幹部、体育学校の教官となることを希望しており、幹部候補生学校への入学は必須課程であった。しかし幹部候補生学校の課程スケジュールは厳しく、マラソンの練習時間は著しく削られることになる。
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