暴力による「総括援助」
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「山岳ベース事件」の記事における「暴力による「総括援助」」の解説
12月26日 - 夜、指導部会議から席を外した永田がIとJが接吻するところを目撃したとして、指導部会議で「神聖な『我々』の場をけがした」と2人を強く批判する。これを聞いた指導部メンバーは怒りを露わにし、永田が「どうする?」と皆に相談すると、しばしの沈黙の後、森が「殴るか。総括要求されているIがそういうことを黙っているのだから、他にも隠していることがあるはずや。殴ってそれを聞き出そう」と発言。さらに森は「真に総括させるために殴る」「殴ることは指導である」とし、学生時代に剣道の試合で気絶した時に「目覚めた時新鮮な気持ちになって全てを受け入れられるような状態になった」自身の経験を話し、殴って気絶させることによってIにもそれが可能になることを強調して殴ることの意味付けをした。坂口は「残酷な提起」と考えながらも「気絶するまで」と決められていたため、酷い事態にはなるまいと賛成したという。森は殴ることの意味づけを語ると「いつやるか?」と指導部メンバーに確認、永田が「やるならすぐやろう」と答えたため、森が指導部メンバーにIとJを起こすよう指示。森がIを殴ると宣言すると、Fと「自分がいちばん遅れていると感じていた」吉野もIを殴ると宣言した。坂東も森と永田のやりとりを見て自身を「遅れている」と感じ、後のJへの殴打も自らの克服のために行ったという。これを受けて森は坂口と坂東にJを殴るよう指示するが、永田は過去にJが脱走未遂をした際に殴られた後に「男の同志に殴られてうれしかった」と発言していたことを挙げて「指導として殴るならJは女が殴るべき」と主張。その上で「私は思いっきり殴れそうにない」と言った永田に、森は「それはそれでいいから」と答えた。Aが森に殴る意義を再度確認。森が「共産主義化」を勝ち取るための新しい指導であることを主張するとAはこれを受け入れた。 こうしてIとJが殴られる事が決定された。既に就寝していた被指導部メンバーは永田によって起こされ、メンバー全員が2人を取り囲んだ中で指導部と被指導部による2人への殴打が始まる。永田はJや実弟である加藤倫教とiにもIを殴らせる。呆然としたまま動けない加藤倫教に対し、永田は1971年3月に加藤倫教が他メンバーらとともに大阪で無抵抗のまま逮捕されたことを持ち出し、これを克服するためにも「殴らねばならない」と言ったという。IがJと肉体関係をもったことがあると告白すると、永田は憤慨し、坂口と坂東がJを殴り、永田が「男が殴ると気持ちよくなるから」としてhら女性メンバーにJを殴らせた。しばらく殴られた後で正座させられたJはトイレに行くことを希望するが、森はこれを認めず、Jはその場で排泄させられた。Iへの追及と殴打は夜が明け始めるまで続き(結局2人が気絶することはなかった)、永田の指示によりIは坂東とFと吉野に縛られ、以後用便にも立たせず放置した。永田はIとJに食事を出すように指示。 12月27日 - 全体会議において気絶しなかったIを「総括できていない現れ」として批判した森は束縛を総括に集中させるためと説明し、当面IとJに食事を与えないことを決定。さらに森は殴ることを「同志的援助」と位置づけ、「報復的に殴った」Jを批判他にもJを批判する者が数名いた。加藤倫教が「殴るということではなく、他に総括させる方法はないだろうか」と述べると、永田は「他に方法があるなら言ってよ」とこれを即座に撥ねつけた。 吉野は1970年に組織の金を私的に使ったことを告白し、自己批判。cとgが昼前にGを連れ榛名ベースに帰還すると、Gは意見書について自己批判。森がGの服装を指摘すると、Gは一度シンパに買ってもらったものと報告した後しばらくしてからシンパからもらった金銭で自分で買ったものであると訂正した。森は初めからそう言わなかったことを批判し、Gは自己批判した。 指導部会議が始まると、森は革命左派に川島豪との決別・暴力的分派闘争を迫り、革命左派は川島豪との決別・分派闘争を受け入れ、「新党」の結成を確認した。川島との結びつきが強かった坂口は最後までこれを受け入れられずにいたが永田の促しによって最終的に承諾した。森は、坂口に対して「今後君によくしゃべってもらう」と言い、以後森は永田に次いで坂口を特別視するようになり、「共産主義化」の観点からいくと批判されるようなことでも永田と坂口は森に批判されることはなかったという。 夜の全体会議は坂口による「新党」結成の報告から始まり、坂口は「川島に銃口を向ける」と発言。森はIを殴る際に「よくも俺のことをプチブル主義者と言ったな」と言ったKを「同志的な対応のあり方ではない」として批判。吉野はI殴打の際途中から殴るのをやめたことを森に指摘され、吉野が森に「自分も同じ問題があると思った」というと、森は「だったら余計殴らなあかんやないか」と言った。 未明まで続いた指導部会議で、森は新倉ベースに残された赤軍派メンバーが榛名ベースにいるメンバーより「はるかにおくれてしまっ」ていること、森自身はIとJを殴って縛った後だから榛名ベースを離れることができないと発言。榛名ベース到着時に森がDらが総括できたと言っていたのを信じていた永田は、新倉ベースにいる赤軍派メンバーを榛名ベースに呼び寄せることを提案。坂東とFがLの運転で迎えに行くことになった。 12月28日 - 森はJの束縛を決め、Jは朝食後に束縛される。森は永田に対してJがガラス戸を見ているのは逃げることを考えているためだと断定し、それを見抜けていないとして永田を批判。 永田は被指導部メンバーに対して「新党」結成のレジュメを作ることを報告。被指導部メンバー達は喜んだが、これを見ていた森は永田の被指導部メンバーと仲良くやろうとする姿勢を「上からの指導ではない」「指導者として正しくない」と批判。これを受けて永田は以後被指導部メンバーとほとんど会話をしなくなった。 坂東・F・Lが新倉ベースへ出発。 夕食後の全体会議で、Kは十二・十八闘争で日和った事、軍が逮捕された時のことを想定して銃の隠匿場所を合法部メンバーに教えたことを森に追及され、自己批判して正座する。全体会議後の指導部会議は朝まで続き、森はKが銃の隠匿場所を教えたことを敗北することを前提とした敗北主義として批判し、Kの闘争歴から日和見主義を問題視した。 12月29日 - 森はKの日和見主義克服のため十二・十八闘争に見立ててKを警官役と決闘させることを提起。この警官役に坂口が名乗り出て決闘が行われるが、Kがほぼ一方的に殴り返され続ける形で決闘は終了。「よくやった」(森)「おやじさん(森の愛称)ありがとう」(K)というやりとりを見た永田は「すべてを取りしきっているのは自分だといわんばかり」の森の「鷹揚さ」とそれに「媚び」ているKに苛立ち、「甘えるな」とKを批判。また、この決闘の最中にHがその場を離れたため、森が決闘後にそのことを追及すると、Hは「あんなことしてもK君が立ち直るはずがないから」と反論した 。 その後行われた指導部会議の最中、KがGに「ちり紙をとって」と言ったのを聞いた森は「甘えている」と批判。「総括する態度ではない」として指導部全員でKを殴り、立ったまま総括するよう命じ、食事も与えず、用便にも行かせないことにした。他方で森はKの「決闘」時にIが「頑張れ!」と励ましていたことを評価。この頃には「暴力的総括援助」を課せられたメンバーに対する総括進展状況の判断基準に肉体的限界状況下での「態度」に重きが置かれるようになっており、事件の終結までこの観点は維持された。 森、買い物に出かけていたGが美容室で髪を切ってきたことを批判し、Gはこれを受けて自己批判。cは「革命戦士として自立するため」としてFとの離婚を表明し、森はこれを「女の革命家から革命家の女へ」なることとして評価する(この時Fは新倉ベースに行っており不在だった)。Hも吉野との離婚を表明するが、永田に反対される。Gは森の発言を受けて「革命家の女になるために努力する」と発言するが、森に美容室で髪を切ったことを改めて批判され、Gは自己批判する。 (新倉ベース)坂東・F・Lが新倉ベースに到着。坂東は煤で黒くなった顔を洗わずに総括しようとしていたDを見て「がんばっている」と感じたという。坂東が赤軍派メンバーに赤軍派と革命左派による「新党」の結成を報告し、榛名ベースへの移動を促す。B・D・Eの総括が完了していないというCの発言を受けてFの提案によりその場で各々の総括を検討することにする。3人の総括を聞いた坂東とFは「基本的に総括できている」と評価し、坂東とLが3人を連れて榛名ベースに出発。植垣とCは指紋消しのため新倉ベースに残り、Fとaは任務のため上京。 12月30日 - (榛名ベース)午前の指導部会議において前夜Kの見張りをしていた吉野が「何度も横にならせてくださいと言うなど総括をする態度ではない」と報告。森はKを縛ることを提起し、森と指導部はKを殴り、立たせたまま縛る。夕方の指導部会議の後に全体会議。 午後、Iの腕にロープで長時間縛られていることによる水泡が出来ているのを見た森は動揺するが、Aとの相談の末、「腕の1本や2本なくなっても革命戦士になったほうがよい」と再び態度を硬化。 森は全体会議においてI・J・Kに食事を与えないことにしたことを報告。今後食事を与えるかは総括の進展状況によるので指導部に一任するように被指導部メンバーに通達。永田はこういった決定は指導部会議において話されていなかったため驚いたがそうすることが森の言う「上からの党建設」であると考え無批判に受け入れたという。 Iと共に逮捕されていたdがbとeに連れられてベースに帰還。dは取り調べ中に刑事が出した食べ物を拒否せず飲食したことを自己批判。永田はdに対してその夜の総括中の者の見張りを永田とともにすることを命じただけで、それ以上の追及はしなかった。加藤倫教は自身の兄であるIとこのdへの扱い(是政で無抵抗で逮捕されたこと、「意見書」に同意したことなど、Iが批判されたこととの共通点が多かった)を比べて不公平に感じたという。
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