日本文化への影響
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日本へ入ってきた禅の宗教観は在来の諸文化に多大なる影響を与え、日本人の気質や日本の風土と融合し、独自の発展を遂げていった。 華美を好まず、極力装飾や無駄を排するミニマリズムに基づく様式で、鎌倉文化からその影響が見られはじめ、室町文化(中でも東山文化)となって、国風文化により生まれた日本文化(和様)と完全に融合し、独自性を確立した。また江戸時代にかけて、禅は武家などに限られたものから一般庶民にまで普及し、鎖国政策と相まって、その文化としての独自性や定着度は増していった。禅の受容は、武家文化の発展とともにあり、それは武士の生活様式・精神性の根幹の一つが、禅であったことを示している。 禅の芸術が作られたのは禅寺においてであったが、こと室町時代においては、禅寺は中国文化の受け入れ窓口としても機能していた。宋・元・明由来の禅・世俗美術の受容が禅僧を通じておこなわれ、水墨画や枯山水、茶道、華道といった、いわゆる日本文化の代表的な部分が形成されることとなった。例えば、京都の相国寺からは、如拙、周文、雪舟といった画僧が輩出されている。また、禅寺は禅僧、公家、武士が交流するサロンとしての役割を果たしたことで、寺院に付属する書院や庭園美術が発達した。この分野では、臨済宗の僧侶、夢窓疎石が多大な役割を果たしている。 なお中国文化において禅は、前項にも関連するが、明時代以降の衰退や、元来の多民族国家という機構、また近代の列強による支配や戦後の文化大革命などによって、文化浄化が常に一定の期間で発生し、人々の生活に根強く定着することはなかった(この傾向は禅に限らない)[要出典]。鈴木大拙が1938年に『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture(禅と日本文化)』と題して世界に禅を広めたことや、実際に日本以上に禅を文化として吸収した国は他にないため、禅を日本の宗教として捉えている者も少なくない。 近年でも世界的に禅の思想が許容される要因には、「宗教らしくない」そのシンプルさや自由度の高さが挙げられている。
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日本文化への影響
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本像の特異な様式、謎に満ちた伝来などは、多くの人々の関心を呼び、随筆、短歌等でしばしば取り上げられ絶賛されている。 和辻哲郎は、当時は奈良帝室博物館に寄託されていた本像を見た感想を『古寺巡礼』(1919年)で述べている。和辻は百済観音について「形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示される何か抽象的なものを目ざしている」と言い、「初めて人体に底知れぬ美しさを見だした驚きの心の所産である」と述べている。また、百済観音の様式について、ガンダーラ仏あるいはインド仏よりも漢代の石刻画を思わせるものであり「この様式こそシナにおける創作と言い得るものであろう」と述べている。和辻によれば、シナではそれはいくつかの様式のうちの一つであったが、日本ではこの様式がほとんど決定的な力を持つにいたるまでに、百済観音の様式の背後にある体験に日本人は共鳴したとされる。 亀井勝一郎は『大和古寺風物誌』(1943年)においてこの像を「大地から燃えあがった永遠の焔」のような像だと絶賛した。会津八一、吉野秀雄、吉井勇らは百済観音を題材とした短歌を作っており、その他多くの文筆家によって本像が取り上げられている。 1997年にはパリのルーヴル美術館で百済観音の特別展示が行われた。1997年から1999年にかけて「フランスにおける日本年」および「日本におけるフランス年」という趣旨で、両国において多くの記念行事が行われたが、その際、両国の国宝級美術品1点ずつを相手国で公開することとなり、日本からは百済観音が、フランスからはウジェーヌ・ドラクロワの代表作『民衆を導く自由の女神』が選ばれた。 韓国では、自国が与えた古代日本文化の源流として、多くの歴史教科書でこの像を取り上げている。
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