日本文化の竜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 02:16 UTC 版)
「中国の竜」も参照 中国から弥生時代には現在の竜のモチーフが日本にもたらされており、和泉市にある紀元一世紀頃の池上曽根遺跡から、胴をくねらせ三角の無数の突起を持つ動物が描かれた壺が出土している。こうした弥生竜の図柄を持った遺物は日本全国で30点あまり発見されている。この時代の日本人は竜の確固たるイメージを持っていなかったため、中国の竜の正確な模倣はできなかった。一方では、最初の弥生人は江南地域の龍蛇信仰を持つ海神族の流れであるとする説があり、大陸から竜と共に渡ってきたとされる(『魏志倭人伝』に、越人が入れ墨をして蛟竜を避ける風習に似て、倭人も入れ墨で大魚水禽の難を避けると記述される)。 日本神話は、海神族を龍宮の八尋和邇などとしており、天孫の地神五代と八尋和邇の玉依姫との間に初代天皇である神武天皇を設け、また、日本海を中心とした高志(後に越)の八岐大蛇に自然崇拝を現して、日本神話を語っている。そして、国津神に属する大国主神、大物主神、建御名方神などが蛇体・龍神として描かれた。 天皇の権威の象徴は、日本では龍の剣として表している。 科学史家の荒川紘は、五爪の竜は、中国では皇帝の象徴であるから、日本では天皇の権威の象徴として用いられることはなかったと述べ、その背景には中国をただ模倣するのではなく日本の天皇の中国に対する独自性を宣揚しようとの意図があったのではないかとみている。また、日本の竜は、蛇、魚の群れや魚との区別があいまいで多種多様な姿形と性格を呈しており、それは江南の龍蛇信仰と混淆して更に外来文化の竜が接木された結果であろうと推察している。 平安時代になり、『法華経』や密教が浸透するにつれて日本の竜は明確に独自性を帯びてくる。9世紀には室生寺に「竜穴」の記録が現れ、雨乞い信仰が行われるようになった。竜穴はその後も日本各地の寺社に現れ、中世には竜穴同士は地下で繋がっており、竜もしくは蛇竜が行き来しているという観念が生まれた。戦では、戦勝と守り神に竜を象る剣や兜が用いられた。中世末になると、戦国大名の里見義頼は竜が描かれた印判を使用するようになる。
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