日本文化への思い入れ、その特別な関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:37 UTC 版)
「ジャーク・ヒニズドフスキー」の記事における「日本文化への思い入れ、その特別な関係」の解説
日本の木彫りに強く影響を受けたヒニズドフスキーは単身、そして家族と共に実際に日本に滞在した。北島三郎の大ファンであったという彼の人柄が伝わる個人的なエピソードを、未亡人とのインタビューから紹介する。 日本は生涯徹してヒニズドフスキーを魅了し続けたが、70年代に2年程たまたま日本に滞在していた、生物学者であり、彼の作品の収集家でもある友人を訪ねた。沢山の写真、布と一緒に持ち帰って来たのは北島三郎のレコードで、これが家族中を演歌好きに巻き込む始まりだった。現在未亡人の家には北島三郎以外に岡晴夫、東海林太郎、藤山一郎、五木ひろし、森進一など200巻を超える演歌のカセットテープがあり、ヒニズドフスキーのお気に入りは小林幸子、八代亜紀、森雅子と島倉千代子などで、スタジオではいつも演歌が流れていた。参加していた芸術コミュニティーで北海道出身のアイヌ系アーティストと出会い、和紙の作り方を教わる。スタジオを訪れたそのアーティストは、演歌を聴いて涙を流したそうだ。 『黄金の日日』から始った日本のテレビドラマへの嗜好もヒニズドフスキーが亡くなるまで続く。特に『おしん』が好きで、VHS以前は土日のどんな招待をもドラマ観賞のために断り、年末も紅白歌合戦の為に家以外で過ごす事は無かったという熱狂振りだ。こういった日本の音楽と文化、そして思想への傾倒は遂にヒニズドフスキーに日本式の葬作法を選択させる。これは後にウクライナでのヒニズドフスキーの納骨を可能にしたため、素晴らしい選択だったと家族は感じている。彼の遺灰は1985年に亡くなってから20年後、ニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂からウクライナ・リヴィウのリチャキフ墓地へ戻った。 ヒニズドフスキーの未亡人と娘が1979年に日本へ来たとき、娘は彼女の目には少なくとも100ポンドの重さはあるかと思われる和紙のロールを、引きずって歩いた東京の通りを覚えているという。彼女も父親と同じく日本に深い思い入れがあり、日本の眼で物事を見ていると言う。
※この「日本文化への思い入れ、その特別な関係」の解説は、「ジャーク・ヒニズドフスキー」の解説の一部です。
「日本文化への思い入れ、その特別な関係」を含む「ジャーク・ヒニズドフスキー」の記事については、「ジャーク・ヒニズドフスキー」の概要を参照ください。
- 日本文化への思い入れ、その特別な関係のページへのリンク