日本文化のなかでの「成仏」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 06:04 UTC 版)
日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。 こうした表現は、日本古来の死生観が仏教に入り込みできあがった、仏教者が死を迎えてのちに仏のいのちに帰ると考えられた信仰を背景として、この国土である娑婆世界から阿弥陀如来が在す西方国土の極楽浄土へ転生する浄土信仰とも相まって生まれたものである。日本の仏教が、本来の仏教から変化・変形している事は、知られている。 太平洋戦争当時のアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、彼女の日本文化についての著作「菊と刀」の中で、「~彼ら(日本人)は、死後に生前の行いに従って、極楽と地獄に行き先が分けられる、という(本来の)仏教のアイデア(因果応報)を拒絶したのだ。どんな人間でも、死んだらブッダに成る、というのだ。~他の仏教の国で、そんな事を言う所はない。~」と述べている。 また、民事訴訟法学者である高橋宏志は、法律家は人の役に立つ仕事をしていればよく、感謝されるのであれば成仏できるという趣旨の短文を雑誌に寄稿した。このことから、法律家の間では、司法制度改革に伴い若い弁護士が経済的に困窮したり廃業したりする現象を成仏と表現することが広まっている。つまり、安楽な世界に行くことではなく、ある意味逆の状態を指す言葉として使用されており、「会社員か公務員になった方がいいよ」という者まで現れている実情にある。
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