日本文化と太子信仰
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太子講節で職人との関わりを記述したように、太子信仰は庶民への広がりをみせると同時に様々な文化の発祥に関連する伝承を生み出し、祖神・守護神として祀られた。 華道は、室町時代に六角堂の僧侶が創設したとされ、最も古い流派とされる池坊の家元は代々六角堂の住職が務めている。近世に成立した伝承では、太子の命で出家した小野妹子が六角堂に入り、仏前に花を供えたことが華道の発祥としている。 和紙や墨の製作者の所在にも太子信仰が見られる。『書紀』推古天皇18年条は高句麗僧曇微が製紙技術や墨の製法を伝えたと記すが、この記述が太子の事績とされるようになり「和紙作りの祖」などと祀られるようになった。 香との関わりでは、『書紀』推古天皇3年条に香木が漂着した旨の記述がある。これには「発見した島民が朝廷に献上した」とだけ記されているが、『伝暦』ではさらに「太子が献上された香木を沈香と見抜き、香木から観音像を刻した」と付け加えられている。また太子像には柄香炉をもつ像が多く、太子信仰と共に香を薫く仏教儀礼が全国に広まったと考えられている。 芸能の発祥も太子の事績とされ、芸能の神として祀られる。『書紀』推古天皇20年条には、「百済から渡来した味摩之を桜井(土舞台)に住まわせて日本の少年に伎楽を学ばせた」と記されているが、やがてこれが太子の功績とされるようになった。室町時代成立の『花伝書』は猿楽の発祥を「太子が秦河勝に命じて66曲を作成させ「申楽」と名付けた」と記している。伎楽は奈良時代まで盛んに行われるが、雅楽などの新しい芸能により廃れた。一方で江戸時代には太子が登場する演目が数多く作られた。 武士の中には、太子を勝軍神として祀るものもいた。中世の太子伝の中には、太子を「兵法を伝授された達人で、丁未の乱で秘術を尽くして戦った」「蝦夷を異能の力で服属させた」などと記すものが現れる。戦国末期には、望月相模守定朝が古伝を継いだと称して太子流軍法剣術を創始し、そのなかの薙刀術は静流として会津藩に継承された。 また、太子信仰の根幹となり広く普及した『伝暦』は、日本文学にも影響を与えたと考えられる。杉浦一雄は『伝暦』を最古の一代記とした上で、『源氏物語』の構成や物語論は『伝暦』を踏襲したものであり、光源氏のモデルの1人は太子であるとしている。なお『伝暦』の著者と推測されている人物には、紫式部の曾祖父藤原兼輔がいる。また、湯浅佳子は曲亭馬琴の蔵書に『伝暦』がある事を指摘し、『南総里見八犬伝』の物語構成に太子伝の影響があるとしている。
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