日本・朝鮮地図、ラスク書簡、日韓基本条約、その他
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「保坂祐二」の記事における「日本・朝鮮地図、ラスク書簡、日韓基本条約、その他」の解説
2005年4月、『日本の古地図にも独島はない』(子音と母音)を韓国で出版し、竹島の記載されていない日本の古地図や竹島を日本の版図外とした太政官指令文などを公開した。竹島研究には、民族主義的感情を排除した、客観的な資料発掘が重要であるとしている。 2006年10月、日本人制作による古地図の写本2点を公開した。1点は1882年制作の『朝鮮國全圖』(註:この地図に描かれた竹島と松島は、川上健三がその著書(1966)で鬱陵島と現在の竹島(独島)であることを認めている。)、もう1点は1883年に制作の『大日本全圖』。松島が『朝鮮國全圖』に記され、『大日本全圖』には記されていないことから、日本はこの時、松島が朝鮮国の一部である事を認めていたとし、同月、鬱陵島の独島博物館を訪問し、この2つの地図の写本を寄贈している。 2008年2月22日、日本人制作の『新撰朝鮮国全図』(1894)(註:この地図は前述の『朝鮮國全圖』に彩色しただけの地図である。)と、『朝鮮変乱詳細地図』(1894)を公開した。2点とも、現在の鬱陵島と竹島が韓国本土と同じ色で塗られ、日本列島とは領土的に区別されていることを指摘した。 彼は2008年7月の竹島に関するアメリカの地名委員会による表記に関わる騒動について、「日本は静かに、しかし執拗に米国(政府)側の核心人物に対するロビー活動を続けてきたが、韓国はそうでなかった」、韓国はただ「<独島は韓国が実効支配している地域であり、それをよく分かってほしい>という水準にとどまっていた」と述べている。また、「日本は‘竹島は日本固有の領土’と主張しているが、‘中立的領土’と表記され、当惑し」、「それで(日本の)主要日刊紙が報道を2-3日ほど先に延ばした」と主張している。 保坂は、韓国漫画家協会の要請により、韓国の代表的な漫画家であるイヒョンセと共に、<独島への愛>というマンガを原作者として5日にわたって連載した。掲載は2008年10月20日から24日まで行なわれ、朝鮮日報の文化面のトップ記事として載せられた。 2009年2月23日、保坂は、于山島に峰が描かれた朝鮮時代の古地図2点を公開。彼はこのような地図によって于山島が鬱陵島の東2kmに位置する峰のないチュクトではなく確実に独島であり、韓国が朝鮮時代にも独島に対する領有意識を明確に持っていたことが証明されるとした。 2012年5月、保坂は、外務省が主張する内容ー即ち1951年8月に米国はラスク書簡を在米韓国大使館に送付し、「独島は1905年以降日本の島根県隠岐島の所管であり、それ以前に韓国が独島を領有したことも、独島に対して領有権を主張した事実もない」ことを理由に挙げて、独島を事実上日本の領土であると認めたという内容に関して「ラスク書簡は、他の連合国との間で合意された内容ではなく、米国の独断により韓国政府に送られた秘密文書であるため、米国の見解とは看做されたとしても決してサンフランシスコ条約の結論には成り得ない文書」であるとし、ラスク書簡が独島を日本領土とした文書という日本側の見解は全くの事実誤認と歪曲であることを、米国の他の秘密文書を引用して証明したと主張した。 2012年8月、保坂は、1965年の日韓基本条約と同日に締結した『日本国と大韓民国との間の紛争の解決に関する交換公文』に、「両国政府は別に規定がある場合を除き両国間の紛争であり外交上の経路を通じて解決できない問題は両国政府が合意する第三国による調整によりその解決を図る」と規定されていると主張し、日本が1965年以後に国際司法裁判所(ICJ)に提訴することは「理にかなっていない」という見解を明らかにした。この交換公文について「独島が紛争地域という日本の主張が交換公文から削除され、韓国は独島を紛争地域と認めなかった。したがって交換公文の紛争解決方式も独島には適用されない」、また「ICJ による解決方式は交換公文から除外されたので韓日紛争は ICJ に回付されない」として、この交換公文と日韓基本条約によって日本政府は竹島を日本の領土とする根拠を国際法的に消失し、そのため1965年以降日本政府は ICJ への提訴を韓国に対して公式に提案できなかったのであると主張している。2012年8月21日、韓国の李明博大統領が竹島に上陸したことから、日本はこれに反発して韓国に対し ICJ に合意付託すること及び日韓紛争解決交換公文に基づく調停を行う提案をしたが、同月30日、韓国政府より応じない旨を口上書で日本政府に回答した。 鬱陵島と独島に関する日本での名称の混乱の本質は、日本が鬱陵島と独島の歴史を忘却し、独島を領有していなかった証拠と主張している。1883年から日本の海軍省水路部が発行を始めた日本政府の公式文書である『水路誌』では、独島を朝鮮東岸に所属する「リヤンコールト列岩」と紹介し、その歴史に関して幕末以前の歴史を記せず、「此列岩ハ1849年仏国船『リヤンコールト』号初テ之ヲ発見シ」と記して、独島が初めて1849年にフランス船によって発見されたと明記している これらの事実は、19世紀の中ごろには日本が幕末以前の独島の歴史に関して忘却したことを示しており、それは当時日本が独島を領有していなかった証拠であると主張している。
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