戦後 - ピープルズバンク路線
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「三和銀行」の記事における「戦後 - ピープルズバンク路線」の解説
終戦直前、第2代頭取に日銀出身の岡野清豪が就任。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は当初、同行を財閥銀行と同列に扱い、制限会社の指定を検討したが、非財閥系「ピープルズバンク」であるという訴えを粘り強く続けた。事実、三和銀行は大阪・船場の繊維産業への融資を中心にしていたため戦時中の軍需融資も少なく、指定金融機関の軍需融資先数でも最も多い日本興業銀行の146社に対し、三和銀行は64社にとどまっていた。このため制限会社指定の決定は取り消された。 1947年2月、第3代頭取に同じく日本銀行出身の渡邊忠雄が就任、戦後の混乱期の中で経営再建に乗り出す。1948年3月、三和銀行は金融機関再建整備法に基づき、軍需補償打切に伴う損失補填のため資本金を1538万円に減資したが、同年10月には10億円に増資し新発足した。行名も不変で「親しさも名も変わらぬ三和銀行」をスローガンに強力な預金増強運動を展開し、終戦直後には6位だった預金順位を、1949年3月には3位とした。高度経済成長下において、同行は「ピープルズバンク」を基本理念とした経営基本戦略を積極的に推進し、1955年3月には全国どこでも出し入れできる普通預金のネットサービス預金を創設した。国際化の面では、1953年1月にサンフランシスコ支店、1957年にはロンドン支店を開設している。なお、1959年に大蔵省の信託分離政策に沿い、三和銀行と神戸銀行信託部門、野村證券証券代行業務部門及び投資管理業務部門を承継して、東洋信託銀行を発足させている。この頃から融資系列における繊維偏重路線は、その斜陽化によって軌道修正を迫られていく。 1960年5月、初の生え抜きとして第4代頭取に上枝一雄が就任、会長となった渡邊と共に、バンク・オブ・アメリカなどの視察からアメリカの商業銀行を倣い「ピープルズバンク」(リテールバンキング)路線を推進する。1960年12月には最初の消費者金融「ドリームローン」の開始、1963年には資金使途自由な「暮しのローン」を創設するなど、消費者金融の開発に努力した。また、1963年にはニューヨーク、1964年には香港と、海外に相次いで支店を設置し、国際化の進展と共に外国為替業務の強化に力を注いだ。1961年には、日本信販(現:三菱UFJニコス)と共同で日本クレジットビューロー・JCB(日本で2番目のクレジットカード専業会社。1番目は日本ダイナースクラブ)を設立。1964年に日綿実業(現:双日)と共同で、日本で2番目のリース会社「オリエント・リース」(現:オリックス)を設立している。この頃に企業集団として、融資系列を中心にみどり会を結成し、経済旋風社 などの新興企業への融資を強めていく。 主要大株主の推移順位株主(1962年3月)所有率株主(1968年3月)所有率1 大日本紡績 2.05 日本生命 2.27 2 明治生命 2.04 帝人 2.27 3 宇部興産 2.00 明治生命 2.27 4 帝国人造絹糸 1.80 ニチボー 2.05 5 東亜紡織 1.60 宇部興産 2.00 6 日本レイヨン 1.50 富士製鉄 1.75 7 日本生命 1.50 大同生命 1.59 8 丸善石油 1.50 日立造船 1.59 9 富士製鉄 1.50 日本レイヨン 1.59 10 日本通運 1.50 日立造船 1.59 ※順位が同列の場合は五十音順に列挙(出典)野口佑,『日本の都市銀行』,1968年,230頁 1971年9月、第5代頭取に就任した村野辰雄は「ピープルズバンク」路線を徹底的に強化するため、全行員に「お客さまのお役に立つ銀行、ユア・バンク」の考えに徹するよう強調し、個人預金日本一を実現した。また村野は国際畑であったため、国際合同銀行および加州三和銀行の設立、海外各地の拠点開設、ブラデスコ投資銀行への資本参加、中国との円元決済問題での合意など、新機軸を次々と打ち出した。1976年、第6代頭取に赤司俊雄が就任。赤司は「人間尊重」を経営理念とし、「ひと味違うピープルズバンク」の実現を目指した。その一環としてQC活動を銀行業務に導入している。またこの頃、三和銀行の弱点だった首都圏の基盤強化を目的に富士銀行(現在のみずほ銀行)との合併を画策するも、大蔵省の反発に遭い頓挫してしまう。1982年、第7代頭取に川勝堅二が就任。海外経験の長い川勝は銀行業務の新展開を「国際化・証券化」に向けた。川勝のもとで三和銀行は「ピープルズバンク重視」に加え「インベストメントバンク重視」を打ち出し、両者を統合した「ユニバーサルバンキング」を目指した。アメリカの大型リース会社や証券会社の買収など思い切った海外戦略を展開、国内でも証券業務を強化し、人材をインベスト部門へ傾斜投入した。またこの頃、シンクタンクの三和総合研究所(現:三菱UFJリサーチ&コンサルティング)を設立した。
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