戦後 - コラボレーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 14:40 UTC 版)
「ルネ・シャール」の記事における「戦後 - コラボレーション」の解説
パリ解放直後には、1939年に詩人マックス=ポル・フーシェ(フランス語版)が対独レジスタンス作家の活動の場としてアルジェで創刊した文芸誌『フォンテーヌ(フランス語版)』やエリュアールが創刊した『レテルネル・ルヴュ』に作品を発表し(前者は1947年、後者は1945年にそれぞれ終刊)、1945年に『孤立して留まって』が刊行された。これにより、シャールは「レジスタンスの詩人」として一般にも知られるようになった。さらに、シャールと同様にレジスタンスに直接参加したアルベール・カミュの勧めによって、『フォンテーヌ』に掲載された237の断章を『イプノスの綴り』としてガリマール社から出版。大きな反響を呼び、シャールの名は不動のものとなった。この結果、シャールは活動領域を広げ、彼の作品の翻案も行われた。1947年4月には彼の詩に基づくバレエ『呪い』が制作された。ジョルジュ・ブラックが舞台美術を担当し、シャンゼリゼ劇場で上演された。1948年には作曲家ピエール・ブーレーズがシャールの詩に曲を付けた『水の太陽』がラジオ放送で発表された。ブーレーズはこの後、1955年に『主のない槌』、1957年には『婚姻の顔』に曲を付けた。これらは現在、ブーレーズ指揮BBC交響楽団の演奏などで聴くことができる。ロートレック、カミーユ・クローデル、ダントン、モリエールなどの伝記を映画化したことで知られるロジェ・プランション(フランス語版)は、1949年にシャールの戯曲『クレール』を上演。また、同年、『レ・タン・モデルヌ』に掲載された戯曲『陽光を浴びて歩く男』は1954年に米国で上演された。 とりわけ、ブラックとは1947年以降親交を深め、『図書館は燃え上がっている』(1956年)、『恋文』(1963年)にはブラックの挿絵(版画)が掲載されているほか、1958年には『ジョルジュ・ブラックに捧げる5篇の詩』を発表している。上述のように、シャールはもともと絵画に造詣が深く、すでに1938年に『カイエ・ダール(フランス語版)(美術手帖)』 に「コローのイタリア女」、「クールベ ― 小石を割る男」などを掲載していた。同時代の画家としては、ブラック、ブローネル、ヴァレンティーヌ・ユーゴー、カンディンスキー、ダリのほか、ジャコメッティ、ヴィフレド・ラム、マティス、ミロ、ピカソ、ヴィエイラ・ダ・シルヴァ、イヴ・タンギー、ニコラ・ド・スタールとの合作で詩集や詩画集を発表している。 1949年に妻ジョルジェットと離婚、1951年には母マリー=テレーズが死去した。この時期、アントナン・アルトー(1948年)、エリュアール(1952年)、ニコラ・ド・スタール(1955年)、カミュ、ピエール・ルヴェルディ(1960年)、バタイユ(1962年)、ブラック、ツァラ(1963年)、そしてブルトン(1966年)と、最も親しい友人の死が重なった。また、1954年には生家ネヴォン邸が売却され、敷地内に道路が敷設され、低家賃住宅 (HLM) が建てられた。子ども時代からの記憶が刻まれた場所を失った辛さから、同年、韻文詩「ネヴォンの悲しみ」を書いた。
※この「戦後 - コラボレーション」の解説は、「ルネ・シャール」の解説の一部です。
「戦後 - コラボレーション」を含む「ルネ・シャール」の記事については、「ルネ・シャール」の概要を参照ください。
- 戦後 - コラボレーションのページへのリンク