戦後 アプレゲールな新作派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 02:32 UTC 版)
「三遊亭歌笑」の記事における「戦後 アプレゲールな新作派」の解説
結婚、召集から除隊後に落語に帰って来る。が空襲が酷くなり、寄席はどこも閉まり、人形町末広と神田の立花のみ残っていた。 戦後の復興が直線的に進んだ訳ではなく、まだ生きるのに必死で笑いに気を向ける余裕がない人が多い中、一足先に復興する銀座の風景で歌笑は作った。以下は『歌笑純情詩集』より(冒頭) 銀座チャラチャラ人通り赤青緑とりどりの着物が風にゆれているきれいなきれいな奥さんがダイヤかガラスか知らねども指輪をキラキラさせながらツーンとすまして歩いてる 特異な風貌(どことなく愛嬌も感じられる「フラ」)と、それに似合わぬ純情な所が、終戦直後の荒んだ世相に明るい笑いを提供する。 1947年10月に真打昇進。ラジオ出演をキッカケとして、日本劇場や国際劇場等を満員にするほど人気が沸騰し、元祖「爆笑王」(同じ「元祖爆笑王」の名前を、バラエティ主体の放送作家が名乗る)、「笑いの水爆」と呼ばれ、一世を風靡。 共に若手三羽烏と呼ばれた四代目柳亭痴楽、九代目柳家小三治ら同年代の若手落語家に多大な刺激を与えた他、四代目桂米丸や後に同じ昭和の「爆笑王」の名を拝命する初代林家三平といった駆け出しの落語家の大きな目標となっていた。 得意ネタは、七・五調で演じる「歌笑純情詩集」の他に「論文集」、「迷作集」「ジャズ風呂」がある。 SPレコードは現在確認されているもので「我が生い立ち記」「音楽花電車」「妻を語る」「音楽風呂」「スポーツショウの巻」の5枚が残されており、この5枚は2010年現在、全てCD化されている。趣味は読書であった。 1948年に映画「音楽二十の扉」、1949年「ホームラン狂時代」、1950年に「笑う地球に朝がくる」に出演。
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