戦後の関学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 19:00 UTC 版)
「関西学院大学ファイターズ」の記事における「戦後の関学」の解説
1946年にアメリカンフットボール部が再結成され、関西米式蹴球連盟設立に参加する。4月に行われた、OBも含めた全関大、全同志社による戦後初のリーグ戦は、全関大に敗れ2位に終わる。現役学生のみとなった秋季リーグ戦は、関西大学に公式戦初勝利を挙げるものの同志社大学と引き分け同率1位となった。その後、優勝決定のプレーオフでも0-0と再び引き分け、2度目のプレーオフで7-2と同志社大学に敗れたため、リーグ初代王者とはならなかった。 1948年には関西大学とリーグ戦で引き分け、同率1位となったがプレーオフで敗れ、甲子園ボウル初出場は逃がした。 1949年は、ともに初の甲子園ボウル出場を目指す京都大学と優勝を争う。関学は京大戦に逆転勝利した勢いで、全勝で初の単独優勝を果たす。その後、初出場した甲子園ボウルでは、慶應義塾大学を下し初優勝を飾った。
※この「戦後の関学」の解説は、「関西学院大学ファイターズ」の解説の一部です。
「戦後の関学」を含む「関西学院大学ファイターズ」の記事については、「関西学院大学ファイターズ」の概要を参照ください。
- 戦後の関学のページへのリンク