戦後の開発計画と自然保護活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 15:08 UTC 版)
「双ヶ丘」の記事における「戦後の開発計画と自然保護活動」の解説
1941年11月13日、双ヶ丘は「京都盆地における卓越した展望地点」として国の名勝に指定(指定名称は雙ヶ岡)された。1949年には東麓に京都市立双ヶ丘中学校が開校し、1954年には南西麓に十全会精神科京都双岡病院(現:新生十全会グループ京都ならびがおか病院)が開設認可(翌1955年には医療法人としての『医療法人十全会精神科京都双岡病院』の設立が認可)された。しかし所有者の仁和寺が経済的事情から売却を図り、1964年に土地の購入希望者がホテル建設などの観光開発を計画したが、国の名勝指定がなされていた事や、都市計画法の風致地区であった事、更には建築基準法の住宅専用地区であった事などから問題となり行政と市民の反対でこれはすぐに流れてしまった。しかし今度は別の人物が「京都工科大学」なるものを建設しようとし、国会でも取り上げられる騒動になり、衆議院決算委員会で質疑が行われたが、結局大学が建設されることはなかった。なおこの際に第三国人の手に移り破壊されると言う噂[要出典]があったともされる。 これら高度経済成長期における双ヶ丘での騒動は、若草山でのレクリエーション施設建設開発や旧東大寺境内のホテル建設計画などとともに、国が1966年に古都保存法を制定するきっかけのひとつとなった。その後は国の援助を受け、1976年には京都市が仁和寺から山域を一部買収して保全活動を行っている。1996年には「御室・衣笠」の一部として古都保存法における歴史的風土特別保存地域に指定された。また、都市計画法の風致地区でもある。
※この「戦後の開発計画と自然保護活動」の解説は、「双ヶ丘」の解説の一部です。
「戦後の開発計画と自然保護活動」を含む「双ヶ丘」の記事については、「双ヶ丘」の概要を参照ください。
- 戦後の開発計画と自然保護活動のページへのリンク