戦後の遺構破壊と再評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 01:00 UTC 版)
1945年(昭和20年)10月4日、アメリカ軍第77師団第306旅団(レイ・L・バーネル准将)が函館市浅野町から上陸、函館山を管理下におき、その後要塞施設の解体を爆破でおこなった、その際出た鉄屑等は当時函館市にある業者に払い下げされた。1951年(昭和26年)には朝鮮特需(金へん景気とも)により、財務局が要塞の金属部品の払い下げを行い、地上部分の多くが消滅した。1965年(昭和40年)頃に千畳敷への道路を作る際、塹壕連絡路の石垣の一部が使われ、1975年(昭和50年)頃に火災防止で木造建築物を取り壊し、弾薬庫や掩蔽壕の多くが立入禁止になった。このような遺構の破壊が許された理由は、当時遺構は不要の長物とされたからという。なお、函館山ロープウェイ山頂駅・展望台や放送局の送信施設はほぼ御殿山第一砲台の上に建てられている。 明治の要塞建設以後、函館山等は要塞地帯として一般人の立入りが禁じられていたが、終戦後の1946年(昭和21年)10月に一般開放され、2001年(平成13年)10月北海道遺産に選定された。2002年(平成14年)以降、函館市が遺構の測量調査や劣化診断を実施している。
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