戦後の電気事業復元運動
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「静岡市営電気供給事業」の記事における「戦後の電気事業復元運動」の解説
太平洋戦争後、占領下にあった1951年(昭和26年)5月、電気事業再編成令に基づき中部配電と日本発送電の再編成によって中部電力株式会社が発足した。終戦からこの再編成実施に至る過程で、静岡市は市営電気事業の復元運動を推し進めた。 復元運動の発端は、1947年(昭和22年)3月5日の静岡市議会において復元に関する意見書が議決されたことにある。これには終戦によって配電統制の意義が失われていたことに加え、戦後の電力不足によって停電が頻発する状況にあり市民の不満が高まっていたという背景があった。その後も静岡市では陳情活動を続け、大都市による「公営電気事業復元県都市協議会」が発足したのに続き中小都市による「中小都市電気事業復元協議会」が1950年(昭和25年)に発足すると静岡市はこれに参加した(静岡のほか苫小牧・一関・仙台・酒田・金沢・都城の7市で構成)。中部電力発足後も事業復元や公納金に関する政府への陳情を続けるが具体的成果はなかった。 1957年(昭和32年)5月、自由民主党は当時検討中であった公営電気事業復元に関する法制化を断念、立法措置ではなく各都市に電力会社との交渉による自主的解決を求めた。政府方針の変更を受け、静岡市では同年11月28日付で中部電力に対して市営電気事業の復元譲渡の要請を提出した。これを機に翌1958年(昭和33年)から市と会社の個別交渉が開始される。同年4月の第1回交渉では、市は市民の希望でもあるとして事業復元を要求したが、中部電力側は要請の全面的受入れは不可能と返答した。12月の第2回交渉では、会社側からまだ具体案はないが何等かの妥協点を見出して問題を円満解決したい、との意向が出された。交渉は1960年(昭和35年)に第7回交渉まで進むが解決に至らず、同年から市側の交渉が当時の市長松永彦雄に一任されるようになり、当時中部電力副社長であった加藤乙三郎との間で交渉が進められた。 1961年(昭和36年)9月、中部電力側から市の公共事業に協力するという解決策が掲示された。これを機に、中部電力が公共事業協力のため市に負担金・寄付金を支払い、別途市有地も購入する、という2点が公営電気事業復元代替の妥協案として浮上、以後交渉が円滑化して翌1962年(昭和37年)9月4日交渉妥結に至り、市議会での了承ののち同年10月23日付で静岡市と中部電力の間で2つの協定書調印に至った。協定書の内容は、中部電力側が市の行う高等学校建設などの事業に協力するため9500万円を負担する、市の行う公共街路灯建設事業のため2500万円を寄付する、というもの。また9月15日付で静岡市池田の市有地3059坪を中部電力が8000万円で購入するという土地売買契約書も結ばれた。 静岡市が中部電力から受け取った計2億円のうち、事業協力負担金9500万円は高等学校建設などに充当するという名目であったが、すでに学校建設(県営化され静岡県立静岡東高等学校として開校)は別財源によって進められていたため、資金は「中部電力株式会社事業協力資金積立金」としてさしあたり保留された。その後1963年度になって全額を一般会計に繰り出して登呂遺跡を中心とした登呂公園の整備費に転用された。公共街路灯建設に対する寄付金2500万円は主要街路・公園・緑地帯・市営墓地の街灯建設や学校・住宅地の防犯灯整備に用いられ、土地売買契約に基づく土地代金は一般財源に充当された。
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