戦後の食糧管理制度変遷
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「食糧管理制度」の記事における「戦後の食糧管理制度変遷」の解説
終戦直後は農業生産力が低下している上に悪天候も重なり、1945年(昭和20年)11月1日には、餓死対策国民大会が日比谷公園で開かれるなど、食糧供給状況は深刻を極めた。これに対処するため1946年2月17日、幣原内閣は臨時に食糧緊急措置令(緊急勅令)を制定し、強権的に供出と米価値上げを促したが、大多数の農民や組合の反感を買い、効果はほとんど無かった。 3月3日には物価統制令が公布施行されたが、価格設定がインフレーションに合わせ非常に高かったため、都市部住民の生活は窮乏を極め、5月1日に復活メーデーが開かれた後、5月19日には飯米獲得人民大会が皇居前広場で開かれ、労働組合員や日本共産党の党員を中心に約25万人が抗議を行った(食糧メーデー)。翌1947年12月30日、初の食糧管理法改正により、対象となる食糧に馬鈴薯・甘藷・雑穀が加えられた。また1947年12月30日食糧管理法改正公布により食糧営団に変わり食糧配給公団設立が規定され、1948年2月20日発足し、復興金融金庫より運営資金を借り入れ引き続き配給を行った。 ガリオア資金の計上により輸入食糧の補給が始まり、その後1948年7月20日に食糧確保臨時措置法が公布施行された。農林大臣は都道府県知事の意見に基づき農業計画で義務となる売渡数量を定め、これにより都道府県知事は市町村別の農業計画を定め、その指示で市町村長が生産者別の農業計画を定め指示するという内容であり、議決機関として政府に中央農業調整審議会、都道府県・市町村に農業調整委員会が設置された。 翌1949年6月25日には、三度目の食糧管理法改正により、食糧配給に関しても農林大臣の配給計画のもとで進められることとなり、農林省の外局として食糧庁が設置された。これらの体系整備により、供出制度は根本的に変わり、食糧不足は緩和され、経済安定九原則のもと、インフレーションも収束へ向かった。こうして1950年3月31日、四度目の食糧管理法改正で芋類は主要穀物の対象から外された。そして指定卸売業者や指定小売業者を通じた販売体制になったため、食糧配給公団は1951年に解散した。 1951年7月27日、農相根本龍太郎は記者会見で、1952年産米より統制撤廃を考慮と言明し、米穀統制撤廃問題がおこった。9月29日、政府に売り渡すべき1951年産米に関する政令公布(事後割当制)。11月6日、政府は、米の統制撤廃延期を声明(GHQは統制撤廃方針を了解せず、事実上白紙還元)。 その2年後の1952年5月29日には、五度目の食糧管理法改正公布(6月1日施行)で雑穀が外され、麦類は最低価格・最高価格の範囲内に価格を安定させる間接統制へと移行。一方で、米は生産者米価と消費者米価の二重価格制を採用し、消費者となる都市労働者の賃金を勘案して生産者米価を決定するようになったが、これが後の食管会計の赤字を引き起こすこととなる。その後1955年より、米は従来の割当供出制から予約売渡制(収穫前に売渡予定数量を申し込み売渡後清算を行う)へと移行し、供出制度は廃止された。
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