戦後への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 16:37 UTC 版)
まもなく日本の降伏により太平洋戦争は終結したが、飢餓作戦で投下された機雷は約6600個が日本周辺海域に残存し、戦後も日本の海運に影響を与えた。舞鶴港で貨客船が触雷沈没し549名が死亡した浮島丸事件(1945年8月24日)、475名が死亡した室戸丸の沈没事故(同年10月7日)、193名死亡の女王丸の沈没事故(1946年1月28日)などが起きている。1950年(昭和25年)までに118隻(掃海艦艇含む)が触雷し、うち55隻が沈没している。 そのため第二復員省・海上保安庁に所属する旧日本海軍艦艇を使い、田村久三元海軍大佐を責任者として戦後も掃海活動(航路啓開業務)が続けられた。投入兵力は1952年までで艦艇360隻・人員1万9000人に及んだ。日本海軍が防御用に敷設していた係維式機雷約55000個の処理も同時に行われ、アメリカ海軍部隊も最終安全確認や外洋の機雷堰の処分を中心に活動した。日本の掃海部隊では、1949年(昭和24年)5月23日の掃海船「MS-27」(旧哨戒特務艇第154号)の沈没まで計30隻が損害を受けたほか、それ以降も少なくとも5隻が損害を受け、1952年までに殉職者78名・負傷者200名以上を出した。なお、このように日本の海上保安庁は掃海経験が豊富であったため、朝鮮戦争に際しては特別掃海隊として国連軍指揮下で動員され、朝鮮半島沿岸での機雷処理を行うことにもなった。 アメリカ軍から日本当局への口頭説明では、1950年(昭和25年)8月までに機雷は機能停止すると伝えられていた。しかし、水圧機雷や音響機雷は実際に1946年(昭和21年)中に死滅状態となったものの、磁気機雷には時限式の自滅装置が備えられていなかった。また、感応装置が機能停止した後も、鋭敏なトーペックス炸薬はわずかな衝撃で爆発する危険が残った。したがって、未回収の機雷による事故はその後も続いた。例えば1972年(昭和47年)5月26日には新潟港で浚渫船海麟丸が触雷沈没し2名が死亡、45名が負傷している。1972年当時でも敷設海域の7 % が未処理で、海底土中に埋まったと思われるものを中心に機雷5062個が未確認であった。 21世紀に入っても、海上自衛隊は自衛隊法84条の2に基づく機雷処理業務を続けており、年平均4個を処理している。一例として、2010年(平成22年)5月29日には神戸港沖で浚渫工事に従事していた潜水士が埋没していた機雷を発見、6月12日に爆破処理された。2006年(平成18年)には掃海済み海域が約99%となっている。
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