戦後の零落と武道意欲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 00:05 UTC 版)
1945年(昭和20年)8月15日、高山は奈良航空隊で抜刀術を指導していた最中に終戦を迎えた。大日本帝国と共に自身の高山流刀法も戦争に敗れたのだとして一時は自殺を決意するも、海軍機関学校の元訓育主任藤崎(村)大佐に制止され、海軍武道教範を後世に残すことを諭される。戦後、高山は九州の久住山中に潜み、以後25年間雌伏する。 久住での隠遁生活を送りながらも、彼の武道に対する意欲は衰えず、その後も執筆活動を続け、1970年(昭和45年)7月15日には、「仰ふく陸海空自衛隊参考剣道として検討」を発行。この頃には「武道体育大学」の校舎建設にも着手し、棟上までするが、途中で終わる。 同年11月3日、「日本武道体系」を発行。これは1941年(昭和16年)、海軍武道教範の作成を命じられた時に脱稿していたもので、同書は戦後の改訂版である。 高山は、戦後は世に出ることもなく、1972年(昭和47年)6月1日、久住の地にて、武道に全てを捧げた73年の人生を閉じた。
※この「戦後の零落と武道意欲」の解説は、「高山政吉」の解説の一部です。
「戦後の零落と武道意欲」を含む「高山政吉」の記事については、「高山政吉」の概要を参照ください。
- 戦後の零落と武道意欲のページへのリンク