戦後、パイロットたちの面会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:26 UTC 版)
「チャーリー・ブラウンとフランツ・スティグラー事件」の記事における「戦後、パイロットたちの面会」の解説
戦後、ブラウンは故郷のウェストヴァージニアに帰って大学に進み、1949年にアメリカ空軍(1947年にアメリカ陸軍から独立し新設された)に復帰し、1965年まで務めた。その後はアメリカ合衆国国務省の海外勤務職員としてラオスやベトナムに度々渡った。1972年に退職してフロリダ州マイアミに転居し、発明家となった。 スティグラーは1953年にカナダに移住し、実業家として成功を収めた。 1986年、ブラウン退役中佐は、アラバマ州マクスウェル空軍基地(Maxwell Air Force Base)のエア・コマンド・アンド・スタッフ・カレッジ(Air Command and Staff College)における戦闘機パイロットたちの同窓会である「鷲の集い」で講演を依頼された。その中で、ブラウンに第二次世界大戦時における印象的な任務は何かと尋ねられた。ブラウンは少し考えて、あるドイツ人パイロットが自分たちを護衛し、敬礼をして去って行ったことを思い出して語った。その後、ブラウンは名前も分からないドイツ人のパイロットを探すことにした。 ブラウンはそのドイツ人パイロットが誰であるかのわずかな手がかりを探して、4年間にわたってアメリカ陸軍航空軍、アメリカ空軍、西ドイツ空軍の記録を調べたが、ほとんど成果は得られなかった。それからブラウンは戦闘機パイロット協会に手紙を書いた。数か月後、ブラウンは当時カナダに住んでいたスティグラーからの手紙を受け取った。その手紙には「私がそのパイロットです」と書かれていた。2人は電話で話し合い、スティグラーは自分の飛行機、護衛、敬礼のことについてなど、ブラウンが聞きたいこと全てを説明したため、ブラウンはスティグラーがその事件のドイツ人パイロットであることを確かめた。 1990年から2008年まで、チャーリー・ブラウンとフランツ・スティグラーは親しく交友関係を続け、2008年に2人は数か月の間隔をおいて亡くなった。
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