恩人・秀長との出会い
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天正4年(1576年)に、信長の重臣・羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)に300石で仕える。この時に冠名を与右衛門に改めている(『公室年譜略』)。 天正5年(1577年)10月、羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍し岩洲城・竹田城を攻め落とす。高虎は居相政貞の案内で竹田城へ奇襲に成功し、1,000石加増され足軽大将となる。但し、高虎が120騎を率いて行った尾代谷・古城山一揆衆攻めでは激しい抵抗や栃谷城の塩冶左衛門尉の攻撃に苦戦し、多くの犠牲を出しながら高虎が一騎で一揆衆と栃谷の者を打ち破る苦戦の様子が伝えられている。 翌年三木合戦に従軍する。天正8年(1580年)正月鷹の尾城攻めの最中、別所友之の家老・加古六郎右衛門と戦い、半刻(一時間)の戦闘の末これを討ち取り、六郎右衛門の愛馬「加古黒」を所持した。同月17日に三木城は落城し、戦功により2,000石の加増を受ける。 天正9年(1581年)、主君羽柴秀長の領国で起きた但馬小代一揆平定に取り掛かる。高虎は七美郡小路比村の小代大膳ら92名を討つために大屋村の栃尾加賀祐善・居合肥前真守政熙肥前と謀り合い攻撃するが、瓜原某が加勢した敵方の攻撃に押され高虎は股を負傷して退却する。また蔵垣村の戦いでは落馬の危機に逢うも祐善の子・栃尾源左衛門善次の助けで帰営するなど苦戦が見られた。同年、 一色義直 (旗本)|一色修理太夫義直の娘を妻に迎える。 但馬国の土豪を討った功績により羽柴秀長から3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された。小牧・長久手の戦いでは峯城・松ヶ島城攻めで武功あり。 天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬った。戦後は紀伊国粉河に1万石の領地を与えられた。猿岡山城、和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。同年の四国攻めにも功績が有り、秀吉から5,400石をさらに加増され、1万石の大名となった。方広寺大仏殿建設の際には材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられている。 天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行として高虎を指名した。高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとする。のちに家康に引見され、設計図と違う点を尋ねられると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返した。家康は高虎の心遣いに感謝したという。 天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで島津軍に攻められた宮部継潤を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この戦功により、秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任する。天正17年(1589年)、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城した。また高虎によって、多数の農民が田平子峠で斬首された。当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っている。
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