恩人碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 14:24 UTC 版)
寛政7年(1795年)春、箱根芦之湯弁天山に昔の恩人堺屋嘉兵衛のために建立したもの。 宗真が20歳の頃、臁瘡を療養するため芦之湯に滞在したところ、同宿者の詐欺に遭い、多額の借金を負い、帰郷後厳しい取り立てにあった。親戚等にも助けを断られたが、出入りの薬種商堺屋嘉兵衛が借金を肩代わりしてくれ、勘当の危機を脱することができた。ところが、嘉兵衛はまもなく疫病で急死し、その妻女も帰郷して消息を絶った。20年後芦之湯を再訪した際、嘉兵衛への恩を思い出し建てたものという。 大正5年(1916年)大町桂月が碑文を注釈しているほか、田山花袋も『箱根紀行』で碑の存在に触れている。大正12年(1923年)関東大震災、昭和5年(1930年)北伊豆地震で2度傾倒し、いずれも子孫杉浦宗三郎により再建された。 戦前、死後子孫も知れない無名の恩人のために碑を建てたことは子孫の感謝や世間の賞賛等の見返りを期待しない強力な道徳意識の表れだとして賞賛され、東京商科大学峯間信吉により堺市助役横山藤吾、『大阪毎日新聞』等を通じて堺屋嘉兵衛の子孫が探索され、新在家町東一丁目14番地の河盛房吉が子孫と突き止められた。また、峯間の朝鮮総督府学務局編輯課への働きかけにより、『普通学校国語読本』巻12に恩人碑の逸話が掲載された。
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