従軍ダンサーとなる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 03:57 UTC 版)
そのうちクラブ側の支配人から、米軍キャンプで踊らないかと誘われ、オーディションを受けることになる。1回のショーのギャラは100ドルで、契約書では「もし負傷、死亡しても米軍側は一切の保証をしない。踊りの最中、反戦を求めるピースサインをしない、乳首を見せない」等との条件が細かく取り決められた。この時期は1アメリカ合衆国ドルが360円の時代で、月に3000ドルを真理子は稼ぐことが出来、日本の家族の元に送金した。 南ベトナムには米軍基地だけでも150カ所以上あり、その中を移動して踊るのが真理子の仕事であった。体育館のようなホールに、1本のロープだけを張って客側と舞台側に分け、銃を携えたMPが護衛する中での、3、4百人はいる米兵の前でのショーであった。野外ではトラックの荷台を仮設ステージにして、その前を複数のMPがタレントを厳重に保護し、15分のショーをフィリピンのバックバンドの演奏や、黒人の歌うブルースに合わせて踊った。米兵は熱狂的で、「TAKE OFF!(脱げ)」とはやし立てる。そういう時、ブラジャーの肩ひもをちょっとずらしたり、背中のホックをとるふりをするだけで大歓声に変わった。そんな兵士たちとの一体感や、今まさに戦場にいるという緊張感に心地よさを感じるが、夜、奇襲に備えて外で寝る兵士たちに耳を傾けると、「ママ、帰りたい、死にたくない」とすすり泣く嗚咽を何度も耳にした。その時、真理子は「明日この人たちは前線に行く。私がこの世で見た最後の女になるかもしれない」と思い、サイゴンに留まる決心を強くする。「踊っていると、もう一曲、もう一曲となかなか終わらせてくれないんです。すごい情熱でした」と当時を回想している。また大韓民国から派遣されてきた首都機械化歩兵師団 (韓国陸軍)の前で、一夜漬けのハングル語でアリランやトラジ (民謡)を歌ったこともあった。ショーの最中に基地周辺に爆弾が落ち、会場の兵士たちが蜘蛛の子を散らすように逃げまどい、MPが覆いかぶさるようにして真理子を守り、恐る恐る立ち上がった後、「生きていた」と実感することもあった。サイゴンから離れた基地で踊るときは、米軍御用達のヘリコプターで移動し、搭乗する時は毎回、撃墜されても命の保証はしないという誓約書にサインをする。「下からベトコンが機関銃を撃ってくるんです。その時は死を覚悟しました」と真理子は言っている。ヘリの中では捕虜として手と足を拘束されたベトコンの兵士と一緒になることもあり、その時は真理子は同じ東洋人という親近感から同情の気持ちを禁じえなかったという。軍用ジープで移動中、黒い塊に近づくと無数のハエが舞い上がり、ベトコンの死体が現れる光景も目の当たりにした。泊まったホテルに砲弾が落ちたこともあり、このような戦時下の危険にさらされながらビエンホア、フエ、ブンタウ、ダナンにある米軍基地を回った。 サイゴンの真理子の住んでいた所は、日本の商社である貿易会社、大南公司のビルで2階に日本料理店の『京』が入っていた。その店は日本のビジネスマンやジャーナリストたちのたまり場になっており、真理子も彼らと親交を深めた。ベトナム戦争の重大な転機となった1968年1月31日のテト攻勢の時、真理子は緊急事態で1日中、野外を駆けずり回って腹をすかした日本人記者たちのために、京の台所を借りて、おにぎりや味噌汁などを作って元気づけた。このテト攻勢以後、ベトナム戦争は激しさを増し、現地で知り合った日本人ジャーナリストたちも爆撃や地雷に触れるなどして次々と命を失っていく。 1968年(昭和43年)8月、日本大使館からも退去命令が出て一旦帰国するが、戦場から遠く離れた平和な日本では充足感を得られず、翌1969年初めには再びベトナムへ戻る。その時の心境を真理子は「GIたちの目に引き戻された」と言い、結局1972年5月まで米軍基地でのダンサーとして留まった。 パリ協定 (ベトナム和平)以後、米軍が段階的に撤退していき、米軍キャンプの慰問が主な収入源だった真理子も、一時は日本に戻ってキャバレーなどのショーに出演するが、踊りを真剣に見つめることのない客の前では、米兵を前にした時のような強烈な刺激は得られず、タイ人ダンサーを引き連れて、再び東南アジア各地のクラブに仕事の場を移していった。
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