従軍と成功、病死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 21:40 UTC 版)
結婚の3日後、第一次世界大戦が勃発すると24歳のシーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集された。作品制作も中止に追い込まれたが、結果としてみればこの出来事はシーレの飛躍に繋がる結末となった。チェコ地方のプラハ駐屯部隊に配属されたシーレが上層部に画家として活動していることを説明すると、軍は芸術家を尊重してシーレを前線勤務に就かせなかった。彼は主に後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができた。更に1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイディアの製作に打ち込んだ。 1918年、第一次世界大戦も終わりに近付いた時にクリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開、それまであまり知名度の高くなかったシーレの作品群は一躍注目を集めた。シーレの絵の価格は上昇し、要望を受けて次々と絵の買取依頼が舞い込むようになった。同年7月、シーレは富裕層の住むウィーン13区ヒーツィング・ヴァットマン通り6番地に新アトリエを構えた。高級住宅地で成功した画家としての大きな一歩を踏み出したシーレであったが、妻エーディトが大戦前後に流行していたスペインかぜに罹り、シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去。シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、10月31日に亡くなった。義姉アデーレ・ハルムスによると、臨終に際してシーレは「戦いは終わった。もう行かなければならない。私の絵は世界中の美術館で展示されるべきだ」と語ったとされている。エゴン・シーレと妻エーディトは最後の住居のあったウィーン13区のザンクト・ファイター共同墓地に葬られた。1968年、義姉のアデーレ・ハルムスが78歳で死去し、エゴン・シーレと妻エーディトの墓に加えられる形で埋葬された。 シーレは死の直前にエーディトのスケッチを遺している。
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