奇術師として
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手品にも堪能で、学生の頃から、東京の多くのデパートや東京近辺のデパートの奇術売り場で、実演販売員としてマジックを見せていた。1991年から社団法人日本奇術協会の参与、名誉会員でもある。協会機関誌『ワン・ツ・スリー』にカレードスコープという連載記事を連載している。2006年の日本奇術協会主催マジック・コンペティション審査員。2009年FISM国際大会の日本代表選出のステージ部門の審査員を前年に務めた。
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奇術師として
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奇術師として舞台に立つ際は、特に新作奇術の考案や創作を好んだ。技師としての経験から、機械仕掛けのトリックを得意とした。1937年(昭和12年)に東京の日本劇場で「魔術の秋」を開催し、紙幣印刷機の応用で、機械に入れたものが何でも大きくなる「物品引き伸ばし術」を披露した。折しも戦時下による物資不足の時代もあり、大変な好評を博した。1952年(昭和27年)、無類の奇術好きである帝国劇場社長の秦豊吉により、帝劇で「天一と天勝」と題した舞台が開催された際には、30種類以上の仕掛けをすべて坂田が手掛けた。 奇術の傍らで、超常現象や心霊現象の科学的な解明にもあたっていた。1946年(昭和21年)の著書『魔術』においては、「真正の心霊現象は実存しないものとは申しません。またあり得ないこととでありますまい」と譲歩する一方で、「少なくとも現代の心霊術者の大部分が、或ひは無鑑札の奇術師の一人づつではないか」とし、奇術師はただ1度の失敗が致命的になることから、「(心霊術者が)九度の失敗も一度の成功で補はれるといふ重宝な事実を、よく心得て」「心霊現象的奇術は当てなければ奇術になりませんが、奇術的心霊現象は当たらなくとも差し支へ」ないと主張した。 雑誌「新青年」誌上でも「天城勝彦」の名義で、「魔術学」と題した連載記事を掲載し、心霊現象の解明についての解説を展開した。筆名の「天城勝彦」は、奇術師の初代松旭斎天勝の名の「天勝」をもじったもので、国家公務員であったため実名が使えず、筆名として名乗った名である。「魔術学」においては、ハンガリーの「脱出王」とされる奇術師のハリー・フーディーニ、アメリカの霊媒師とされるフォックス姉妹、日本の明治時代の透視能力実験で知られる御船千鶴子や長尾郁子らも研究対象に取り上げていた。評論家の中島河太郎は奇術による心霊現象の解明という手法について、「奇術師でありながら、一辺倒的態度を執らぬ厳正さには好感がもてる」と評価している。 奇術関係の書作物も多い。特に1943年(昭和18年)に刊行した本格的な著作『奇術の世界』は、戦時下の物資不足により刊行数が少なかったものの、戦後の1955年(昭和30年)に再版され、その後の日本の奇術界に多大な影響を与えた。これに先駆けてTAMCの会報では、アメリカの奇術師であるハワード・サーストン(英語版)が提唱した、奇術師の心構えを示す「サーストンの三原則」(あらかじめ奇術の経過を話さない、同じ奇術を2度繰り返さない、種明かしをしない)を日本語に翻訳して、1937年12月号で紹介し、この心得が日本の奇術師の間に広まるきっかけを作った。1956年(昭和31年)に創刊された奇術専門雑誌「奇術研究」の発刊にも尽力し、日本の初期の奇術界の発展のために貢献した。 日本国外での評価も高い。1935年に、インドのロープの奇術(ヒンズーロープ)を舞台化した創作奇術「香炉と紐」により、世界アマチュア奇術選手権で優勝した。1937年には、アメリカの著名な奇術雑誌である「スフィンクス」の8月号で、同誌の主筆であるジョン・マルホランド(英語版)の知己である阿部徳蔵や石田天海らと共に、坂本の作品が掲載された。翌1938年には「香炉と紐」により、雑誌「スフィンクス」の主催によるスフィンクス賞を受賞した。日本人での同賞の受賞は、坂本が初めてである。この受賞について、奇術師の初代引田天功は「あれくらいになりますとまさに一つの芸術ですよ」、石田天海は「奇術に国境も人種的差別もなく、良いものは良いと率直に認めるアメリカ本来の精神が発揮された」と評した。
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