外食店
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 08:44 UTC 版)
1899年(明治32年)、東京市・銀座の洋食店「煉瓦亭」が「豚肉のカツレツ」(「ポークカツレツ」)をメニューに載せた。それまでのカツレツと違い、牛肉でなく豚肉を使い、ソテー(炒め揚げ)ではなく天ぷらのように大量の油で揚げ(ディープ・フライ)、温野菜のかわりに生キャベツの千切りを添えて提供した。西洋人だけではなく日本人の客に受け入れられることを目論んで作った料理で、人気となった[要出典]。 1911年(明治44年)永井荷風の随筆「銀座」では露店で供される「トンカツ」について触れられている。また高村光太郎の1912年(大正1年)の詩「夏の夜の食欲」にも「トンカツ」への言及を見ることができる。 関連料理としては、1918年(大正7年)に「カツカレー(河金丼)」と、1921年(大正10年)に「カツ丼」が誕生。同1921年に、新宿の「王ろじ」が厚切りのロース肉を揚げ、食べやすく切り分けた「とんかつ」をはじめて売り出したという豚カツ発祥説のひとつがある。 1923年(大正12年)の関東大震災後、洋食や中華料理の人気におされて人気が下降していた日本蕎麦屋が、起死回生策としてカツ丼やカレーライスを扱いはじめたところ、気安く食べられる「蕎麦屋の洋食」として大人気となった。 1929年(昭和4年)、御徒町の洋食店「ポンチ軒」が「とんかつ」を発売。カツを包丁で切り分け、茶碗飯と漬け物と味噌汁で食べさせるという和定食のスタイルで提供し、評判となった。2.5 - 3センチメートルという厚切りの豚肉に十分に火を通す加熱調理法を考案した同店のコック島田信二郎を「とんかつの発明者」と呼ぶ者も多いが、彼は自分の料理を「とんかつ」と呼ばれることを嫌っていたともいう。このスタイルの「とんかつ」は好評を博し、全国に広まった。 1932年(昭和7年)には、上野や浅草に「楽天」・「喜田八」・「井泉」など「とんかつ専門」を標榜する店が次々と開店し、東京下町の繁華街で豚カツブームが起こった。また同じ頃、須田町食堂やデパートの大食堂など、和洋中のすべてをあつかう大衆飲食店が人気となり、豚カツの普及に貢献した。一方、昭和恐慌の時期とも重なっており、安サラリーマンの贅沢は給料日に肉屋の店頭で買う一枚五銭の豚カツとも言われた。 1958年には、とんかつチェーン「とんかつ和幸」の第一号店が開店。カツの衣を湿らさない工夫として金網を利用したり、千切りキャベツや味噌汁をおかわり自由にした。のちに同社の共同経営者が所有する別業態の店舗を同名のとんかつチェーンに転換(ロゴは異なる)。のちには、その企業の役員も独立して和幸を名乗るとんかつチェーンを設立、結果名称が類似するチェーン店が乱立する結果となり、訴訟沙汰にもなった(和幸も参照)。
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