名神大社比定を巡る議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 02:52 UTC 版)
「零羊崎神社 (石巻市湊)」の記事における「名神大社比定を巡る議論」の解説
当社は江戸時代に名神大社「零羊崎神社」に比定された。「零羊崎神社」は『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日の条に「京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。」の1つとして神階が従四位下に昇叙されたことが記される。また、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』においては名神大社に列格、同じく『延喜式 3巻』には名神祭の対象社として記載されている。しかし、その後の史料に零羊崎神社の名は見えなくなり、江戸時代には論争が起こることとなる。 『石巻市史 第2巻』によれば、当社は藤原清衡より神宝黄金の竜、葛西清重より銀竜や神剣など、葛西清経と葛西清宗からは太刀を寄進されており、中世において代々領主の崇敬が篤かったことがうかがわれる。さらに寛文元年(1661年)には伊達家の黒印状により社領5貫文の寄進を受けている。 その後、江戸時代中期になると当社が零羊崎神社であるとの説が唱えられるようになった。 享保4年(1719年)に著された『奥羽観蹟聞老志 巻之9』は、牧山を古の零羊崎神社であると比定した。同書の零羊崎神社の条によれば、仏僧の熾昌が本来の社号を盗み地名を変え旧跡を失わせた場所の1つなのだと言う。さらに当時の社頭の様子にも触れ、毎年4月と9月の8日には祭りがあって近郷より人々が大いに集まり、祭りには市が立って商いが盛んに行われたが、神輿を設けて幣帛を供えるのに人々は観音の祭りだと思っていたと記している。その牧山観音については、同書の牧山大悲閣の条に記述がある。それによれば寺号を鷲峯山長全寺と言い、海底から引き上げられたという秘仏を本尊とし、本尊の前には惠心の作とされる像を置いていた。慈鎮が開基した、あるいは坂上田村麻呂が箟峯および富山と共に建てた3悲閣の1つであると伝えられていると記述している。 寛保元年(1741年)に著された『封内名蹟志 巻第14』も『奥羽観蹟聞老志』と同様の記述で零羊崎神社と牧山大悲閣を紹介しているが、零羊崎神社については、今は宮社がなくて叢祠のみになっていることと、毎年4月と9月の例祭が沙上祭と言われていることを加えて記している。また、牧山大悲閣については、寺号が鷲峯山長禅寺に改まっており、箟峯および富山の悲閣と併せ土地の人々は田村三観音と言っていることが記されている。 安永元年(1772年)の『封内風土記 巻之13』は零羊崎神社と牧山大悲閣について最も詳しく記している。まず零羊崎神社は、現在、白山神社と呼ばれて豊玉彦命を祀っていること、牡鹿郡式内社の筆頭で往古は大社であったこと、湊七郷の鎮守となっていることを紹介している。さらに冒頭のように当社の創建を説明し、山内山外に摂社末社が多数あったとして其々の由緒を説明しているが、これら由緒は修験者普明院家の家伝で、この家は先祖が零羊崎神社の社司であったのだと言う。このような理由により普明院家は神事や神輿の供奉をおこなっていたが、宝永3年(1706年)の神事から牧山観音の別当寺である長禅寺の圓山法印が供奉より普明院家を排除し、宝暦10年(1760年)からは村長を指揮した長禅寺が、普明院家が司ってきた神事の旧例古法を悉く排除して零羊崎神社神事ではなく白山神事と称するようになった。『封内風土記 巻之13』では続けて、長禅寺は嘉祥年間に慈覚大師が白山権現の神体を造って勧請したと言ったことから、『奥羽観蹟聞老志』や『封内名蹟志』では今は零羊崎神社の宮社がなくて叢祠のみとなり、それも白山神社と号されているのだと記している。また同書の牧山大悲閣の記述では、延暦17年(798年)に坂上田村麻呂が箟嶽と富山の観音と併せて建立した田村三観音の1つと土地の人々は言っているが、その地は古の零羊崎神社の地で、仏僧がその地を奪い零羊崎神社の名を隠して牧山観音と号しているのだと記している。その別当長禅寺について『封内風土記 巻之13』は、鷲峯山本明院長禅寺は武蔵国東叡山末寺の天台宗寺院で延暦年間に延鎮が開山、嘉祥年間に慈覚大師が中興して牧山寺と初号し、万治年間に栄存法印が再興した際に長禅寺へ改号したと紹介している。この再興の祖である栄存法印は、当社境内社の栄存神社に祀られている。 これらに加え『封内風土記 巻之13』の真野村の条では、真野村にも零羊崎神社があることが記されている。それによれば、真野の零羊崎神社にあった神輿を牧山に移したところ、仏僧の姦計で零羊崎神社の神号まで牧山に奪われたのだという。 この真野村の零羊崎神社と当社の間には、争いがあったことが『稲井町史』に書かれている。それによれば、普明院家が牧山の白山宮を零羊崎神社であると主張したことに真野の観寿院が激しく講義、紛争は藩庁に持ち込まれた。明和5年(1768年)2月26日御召状により、3月3日に観寿院の法師が仙台評定所へ出頭、零羊崎神社の義につき普明院、牧山白山宮と真野零羊崎神社との関係について尋問を受けた。これに対し観寿院は、真野村が連年凶作続きで社殿の修復も困難になったため、昔より設備していた神輿を牧山白山宮へ一時預けた、故に神輿が元々は牧山のものではないと申し立てた。評定所もこれを認め、零羊崎神社を真野村の鎮守として祭祀するよう判定を申し渡し、観寿院の主張が首尾よく聞き届けられたのだと言う。
※この「名神大社比定を巡る議論」の解説は、「零羊崎神社 (石巻市湊)」の解説の一部です。
「名神大社比定を巡る議論」を含む「零羊崎神社 (石巻市湊)」の記事については、「零羊崎神社 (石巻市湊)」の概要を参照ください。
名神大社比定を巡る議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 15:30 UTC 版)
「零羊崎神社 (石巻市真野)」の記事における「名神大社比定を巡る議論」の解説
当社は江戸時代に名神大社「零羊崎神社」に比定される。「零羊崎神社」は『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日の条に「京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。」の1つとして神階が従四位下に昇叙されたことが記され、また、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』においては名神大社に列格、同じく『延喜式 3巻』には名神祭の対象社として記載されている。しかし、その後の史料に零羊崎神社の名は見えなくなり、江戸時代には論争が起こることとなる。 享保4年(1719年)に著された『奥羽観蹟聞老志』や、寛保元年(1741年)に著された『封内名蹟志』に当社の記述は見えないが、安永元年(1772年)に著された『封内風土記 巻之13』の真野村の条に当社のことが記されている。 それによれば、当社は前述のように何時勧請されたか詳らかではなく、白鳥神社と呼ばれており、真野村の鎮守と伝えられ、現地の人々は古の零羊崎神社だと言っていると記している。さらに当社が零羊崎神社だとする理由について、零羊崎神社は元々湊村牧山にあったが火災に罹災し、葛西家の祭田があった真野村の丸山に社殿を移した。故に祭礼の前後に門前市が開かれ、村人が参集する。このため市が開かれる場所は宮小路、祭田があった場所は宮田と呼ばれ、今もなお遺構が残り、かつその社地が未の方向を向いていることから、村人は当社を零羊崎神社であるとしている、と記している。 しかし『封内風土記 巻之13』は続けて、上記の説は実はそうではなく、天正年間の末期に葛西家が領地を失って亡ぶと零羊崎神社も荒廃し、神輿を湊村牧山観音堂に移した。この神輿も今は見えなくなり、零羊崎神社の神号も白山神社となった。これらは仏僧の姦計によるものであると記し、誠に嘆くべきことだと結んでいる。 『封内風土記 巻之13』の湊村の条には、湊村の零羊崎神社についても記されている。それによれば、湊村の零羊崎神社は、現在、白山神社と呼ばれて豊玉彦命を祀っていること、牡鹿郡式内社の筆頭で往古は大社であったこと、湊七郷の鎮守となっていることを紹介している。さらに牧山大悲閣(観音堂)の記述では、その地が古の零羊崎神社の地で、仏僧がその地を奪い零羊崎神社の名を隠して牧山観音と号しているのだと記している。 上記の湊村の零羊崎神社と当社の間には、争いがあったことが『稲井町史』に書かれている。それによれば、修験者普明院家が牧山の白山宮を零羊崎神社であると主張したことに真野村の観寿院が激しく抗議、紛争は藩庁に持ち込まれた。明和5年(1768年)2月26日御召状により、3月3日に観寿院の法師が仙台評定所へ出頭、零羊崎神社の義につき普明院、牧山白山宮と真野零羊崎神社との関係について尋問を受けた。これに対し観寿院は、真野村が連年凶作続きで社殿の修復も困難になったため、昔より設備していた神輿を牧山白山宮へ一時預けた、故に神輿が元々は牧山のものではないと申し立てた。評定所もこれを認め、零羊崎神社を真野村の鎮守として祭祀するよう判定を申し渡し、観寿院の主張が首尾よく聞き届けられたのだと言う。
※この「名神大社比定を巡る議論」の解説は、「零羊崎神社 (石巻市真野)」の解説の一部です。
「名神大社比定を巡る議論」を含む「零羊崎神社 (石巻市真野)」の記事については、「零羊崎神社 (石巻市真野)」の概要を参照ください。
- 名神大社比定を巡る議論のページへのリンク