千里山住宅地
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千里山住宅地は1920年(大正9年)から1928年(昭和3年)にかけて大阪府三島郡千里村大字佐井寺、現在の大阪府吹田市千里山西1丁目と4丁目から5丁目、千里山駅の西側一帯に計画的に建設された日本初となる田園都市な郊外住宅地。イギリスの田園都市・レッチワースをモデルに、ロータリーを中心に直線の街路が放射状に伸び、その延長線上の北部と南部に小さなロータリーを配置し、全体を半環状に構成する設計となっており、これには、当時の内務省の関与と指導があったとされる。 1921年(大正10年)に北大阪電気鉄道(現在の阪急電鉄千里線)の開業に合わせ、当時終点だった千里山駅前に大規模な住宅地の開発が大阪住宅経営株式会社によって行なわれ、1922年(大正11年)より分譲開始された。大阪住宅経営株式会社の設立者は当時の大阪商工会議所の会頭の山岡順太郎で、彼は就任時から経済界発展のためには住宅事情の解消が急務として、当時の大阪府知事、大阪市長らを発起人として当会社を設立している。 大阪市内では工業化の進展とともに、大気汚染、騒音などの公害問題が明治後半には早くも深刻化しており、そこへ人口の増加による住環境の悪化、コレラ、ペスト、チフス、肺結核の蔓延が重なり、郡部の地域より平均寿命を下げていた。それらを避けるために郊外への移住の志向が強まっており、隣接する豊能郡の豊中、池田、箕面などで箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)が住宅経営で既に成功を収めていたのにもそのような背景があった。 山岡は内務省の少壮官僚による日本での田園都市建設の構想を受け、その住宅地のプランを内務省の外郭団体である都市研究会に委託した。都市研究会から間もなく阪神間モダニズムの影響もあり、20世紀初頭から建設が始まったイギリスの田園都市のレッチワースなどを参考にして、千里山駅の西側に広がる千里丘陵入口部の緩やかな傾斜地に駅から少し離れてロータリーの花壇のある広場を設け、そこから放射状にのびる街路で構成さる青写真が提示され、そのまま実行に移されることとなった。この開発に際して、水道、電気、ガス、下水道の整備が行なわれ、当時としては最も先進的な内容となっている。 また、住民の集会、親睦のために、広いロビーが有り、ビリヤード、囲碁、将棋などの設備のある会館(千里山会館)、さらには、テニスコートなども設置された。開発総面積は9万8300坪、宅地区画は743区画(1区画80坪)、建築された住宅の建坪は20坪前後のものが多かった。1区画を2分割して宅地とするのも可能で、また、大阪住宅経営による2戸建の貸家の経営もおこなわれ、敷金不用であった。隣接する地区には関西大学(山岡順太郎が一時、学長を務めている)の誘致や千里山遊園の建設も行なわれている。後年、こうしたモダンな生活風景は、大宅壮一に「千里山夫人」と評された。 千里山住宅地の開発以降も、1938年(昭和13年)には隣接地区(現在の円山町)で千里山景勝邸宅地が分譲され、1956年(昭和31年)には駅東側に日本住宅公団によって千里山団地(1061戸)が建設され、1961年(昭和36年)には日本初の巨大ニュータウン、千里ニュータウンの建設が始まった。同ニュータウンの工事が開始された時、それまで終点であった千里山駅の行き止まりにあった土砂を取り除き、南千里駅、北千里駅へと延伸工事が実施され、電車が開通するまでの間、ニュータウン行の臨時のバス停留所がこの千里駅前に設けられていたと言う。現在では周囲全域が市街地となり、昔の郊外の面影すらない状況であるが、この地区は樹木が多く、所々に田園郊外の面影を残し、古くに計画的な住宅開発が行なわれた痕跡をとどめている。 千里山会 千里第二小学校東京同窓会に始まる、 千里第二小学校の在籍経験者またはこれに準ずる仲間たちでつくる会が、東京にて1970年より集会や会誌の発行等の活動を行っている。
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