劇場での新たな冒険的試みと国際的な契約
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「リトル・ティッチ」の記事における「劇場での新たな冒険的試みと国際的な契約」の解説
1891年前期に、リトル・ティッチは、ドイツのツアーを終えた。2年後、彼は、自身の振り付けのスケッチ『サーペンタイン・ダンス』(The Serpentine Dance)のためにミス・ターペンタインにみがきをかけ、つぎの3年間、ハンブルク、ジュネーブ、ロッテルダム、ブリュッセル、ニース、モンテ・カルロ、バルセロナ、そしてブダペストでパフォーマンスした。このツアーのおかげで、彼はフランス語、ドイツ語、イタリア語、そしてスペイン語に堪能になることができた。彼は、ミス・ターペンタインを、寸法が合わないチュチュを着けている、風変わりなバレリーナとして描いた。このダンスは、ロイ・フラーのものである有名なスカート・ダンスのコミックなヴァリエーションであったが、これは何年も前にフランスで流行していた。もう一つの成功した人物作りは、風変わりなスペインのダンサーのそれであったが、リトル・ティッチはそれを、ヨーロッパを旅行しながら考案したが、それは『サーペンタイン・ダンス』のように、エキセントリックな唄と冗談の朗読ではなくアクロバットふうの振り付けとコミックなマイミングに大きく頼っていた。 リトル・ティッチが駆け出しの芸人の協同団体、グランド・オーダー・オヴ・ウォーター・ラッツ(Grand Order of Water Rats)に勧誘されたのは、このころであった。1906年に、彼は命令のための「キング・ラット」("King Rat"、ハツカネズミ王)として勤めることになる。1894年に、ドルリー・レーンでの契約上の義務から解放されて、彼は、イングランドのミュージック・ホール界から3年間の休暇を取り、フランスに行き、多くの契約を果たした。次の10年間、彼は自分の時間をそことイングランドとに分けた。1895年前期に、彼はミュージック・ホールからヴァラエティー・シアターに移ったが、これは彼の同時代者の多くがすでに成功裡に達成していた移行である。『Lord Tom Noddy』は、1896年9月に披露され、2か月間、ロンドンのギャリック・シアター(Garrick Theatre)で連続公演された。この作品は、首都ではほとんど成功しなかったが、地方では好評だった。ショーは、リトル・ティッチにまじめな俳優としての自分を宣伝し、単に「ミュージック・ホール出身の奇形のこびと」("deformed dwarf from the music hall")であるという評判から自分自身を切り離す機会を与えた。観客は「たいへん大勢で」("very large")、その「爆笑は頻繁かつ大音量だった」("bursts of laughter w[ere] frequent and loud")と形容された。『Edinburgh Evening News』の記者は、リトル・ティッチは「このスケッチの生命で魂」("the life and soul of the sketch")だ、その歌唱は「ダンスがきびきびしている間はかなり良かった」("fairly good while [his] dancing was smart")、と考えたし、いっぽう批評家ウィリアム・アーチャーは、リトル・ティッチを、「ミュージック・ホールのカジモド[『ノートルダム・ド・パリ』のせむしの男]で、その才能は敏捷さと奇形のグロテスクな組み合わせにある」("Quasimodo of the music halls, whose talent lies in a grotesque combination of agility with deformity")としてしりぞけた。 彼は、1895年半ばに自身の劇団を結成し、自分の最初のプログラム『Lord Tom Noddy』をプロデュースし、そこで彼はまた主演もした。彼は、劇作家ジョージ・ダンス(George Dance)に作品を書くように依頼し、彼を劇団のパートナーにした。1896年12月11日に、リトル・ティッチは、招待されてフランスのフォリー・ベルジェールに登場し、そこで彼は短い作品にミス・ターペンタインとして主演し、ビッグ=ブート・ダンスをパフォーマンスした。『Sunday Referee』の記者は、「4年前のロイ・フラー以来、そのような成功を収めたアーティストはいない」("no artist since Loie Fuller, four years earlier, had scored such a success")と主張し、その結果、彼はフォリーズで2年間の契約に署名した。リトル・ティッチは1897年後期にイングランドに戻り、そこで彼は自分の劇団の2つのショーのうち2つめのショー、『Billy』と呼ばれるミュージカル・コメディーをセルフ・プロデュースした。ニューカッスル(Newcastle)でオープンした後、ショーは健康的な地方ツアーを楽しんだにもかかわらず、或る記者は、「それはあまり魅力がなかった」("it ha[d] not very much to recommend it")が、リトル・ティッチは「いくつかすばらしいおどけをしてみせ」("some excellent fooling")、「いくつかの変わった言動は笑わないでいることなどできなかった」("[was] impossible not to laugh at some of the eccentricities")と考えた。しかし、このファルスは、ロンドンのウェスト・エンドには届かなかった。リトル・ティッチはこれを鼻であしらわれたと見なし、彼はふたたび首都でパフォーマンスすることを断った。その代わりに、彼は、サウス・シールズに行き、そこで彼は『Giddy Ostend』という成功した短い劇に一時的に登場し、それからフランスに退却した。 1898年に、ジョセフ・オラー(Joseph Oller)によって捜し出されたのち、彼はフォリーズの契約を満了直前に破り、オラーは、彼を、パリのオリンピア・ミュージック・ホール(Olympia Music Hall)でパフォーマンスするために雇った。契約違反ののち、フォリーズの経営者エドゥアール・マルシャンは、このコメディアンに対する訴訟を起こし、このコメディアンは、法廷外で開示されていない金額で解決した。演劇マネージャー チャールズ・B・コックラン(Charles B. Cochran)は、この期間にこのコメディアンのパフォーマンスを見ていたが、彼を、「中世のこびと裁判官の生まれ変わり-ベラスケスの小さなイギリスのドン・アントニオ」("a reincarnation of the dwarf court-jesters of the Middle Ages – the little English Don Antonio of Velasquez")と形容した。このときまでに、リトル・ティッチはイギリスの観衆に対して欲求不満を感じるようになった。『Billy』がロンドンに到達できず、フランスと比べてイギリスの首都での成功の水準が異なるため、彼は、世紀の最後の数年間は、イギリスのヴァラエティー劇場界を完全に避けた。その結果、彼は、あまり人気のないミュージック・ホールに戻り、そこに経歴の最後までとどまった。
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