リトル・ティッチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:08 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ハリー・レルフ(Harry Relph、1867年7月21日 - 1928年2月10日)は、[1]、職業的にはリトル・ティッチ(Little Tich)として知られ、19世紀後半から20世紀前半の、身長4フィート6インチ (137 cm)の、イギリスイングランドのミュージックホールのコメディアンでダンサーである。アクロバット風でコメディ風なビッグ=ブート・ダンス(Big-Boot Dance)で最もよく知られている。彼はそれをヨーロッパでパフォーマンスし、その際、彼は長さ28インチ (71 cm)の靴底のブーツを履いた。ミュージック・ホールでの出演は別として、彼は、クリスマスのパントマイムにおいてもまた人気のあるパフォーマーであり、毎年、イングランドの地方の劇場にそれらで登場した。彼はこの成功をロンドンで繰り返し、そこでは1891年と1893年との間に、ドルリー・レーン(Drury Lane)のシアター・ロイヤル(Theatre Royal)で、ダン・レノ(Dan Leno)およびメアリー・ロイド(Marie Lloyd)といっしょに3つのパントマイムに登場した。
概要
リトル・ティッチは、ケントのカダム(Cudham)に生まれ、10歳でパフォーマンスを始めた。そのとき彼はダンス兼ティン・ホイッスルの芸(a dance and tin-whistle act)を身につけ、それをセブノークスのパブで披露した。1880年代前半に、彼は、ブラックフェイスの芸(blackface act)を作り上げ、近くのロシェールヴィル・プレジャー・ガーデンズ(Rosherville Pleasure Gardens)とケントのチャタムのバーナーズ・ミュージック・ホール(Barnard's Music Hall)でのパフォーマンスで人気を博した。1884年に、彼はロンドンに行き、フォレスターズ・ミュージック・ホール(Forester's Music Hall)に登場した。その年晩くに彼はステージ名「リトル・ティッチ」("Little Tich")を名乗ったが、それは幼年期のニックネーム「ティッチボーン」("Tichborne")にもとづいたもので、肥えた身長とティッチボーン事件の疑われたアーサー・オートン(Arthur Orton)との身体的な類似性で取得した。"titchy"(「ちびの」「ちっちゃな」)、"titch"(「ちび」)という語は、のちに "Little Tich"から派生したのであって、小さいものを説明するのに使われている。
リトル・ティッチの芸は、1887年と1889年との間に合衆国ツアー中に成熟し、そこで彼はビッグ=ブート・ダンス(Big-Boot Dance)を確立し、両靴先で立って驚異的な角度に身体を傾けることで観客に強い印象を与えた。1890年代に、彼は、サーペンタイン・ダンス(Serpentine Dance)を身につけ、1889年-1990年のシーズン中にマンチェスターでクリスマス・パントマイム『Woodes in the Wood』で大成功を収めた。1891年に、彼は、興行主オーガスタス・ハリス(Augustus Harris)によって新人として採用され、その年の壮観なシアター・ロイヤル(Theatre Royal)、ドルリー・レーン・クリスマス・パントマイム(Drury Lane Christmas pantomime)『ハンプティ・ダンプティ』(Humpty Dumpty)に登場した。彼は、その劇場でさらに、『Little Bo Peep』(1892年)と『ロビンソン・クルーソー』(Robinson Crusoe)(1893年)を含む2つの作品で主演した。
1896年と1902年との間に、リトル・ティッチは、自身のミュージカル劇団でパフォーマンスし、時間の大部分をパリ過ごし、そこで人気のあるバラエティー・アーティストになった。ミュージック・ホールの芸のために、彼は、日常の観察に基づいて人物を作った。用いられる人物描写は、「ガス検査員」("The Gas Inspector")、「スペインの旦那」("The Spanish Señora")、「ウェイター」("The Waiter")であった。3つすべてがのちにシェラック・ディスクに記録され、それを材料に彼はあわせて20を作った。彼は3回結婚し、子供を2人もうけた。1927年に彼は脳卒中になったが、それはひとつには彼がアルハンブラ・シアター(Alhambra Theatre)での夜のパフォーマンス中に偶然に受けた頭への打撃による。彼は、負傷から完全に回復することは決してなく、翌年、ヘンドンの自宅で60歳で死亡した。
伝記
家庭の背景と前半生
リトル・ティッチは、ケントのカダム(今はブロムリー区内)に、ハリー・レルフとして生まれた[2]。8子のなかの末子で[1]、農夫で居酒屋または宿屋の主人(publican)のリチャード・レルフ(Richard Relph)(1790年-1881年)とその妻メアリー(Mary)、旧姓ムーアフィールド(Moorefield)(1835年-1893年)のもとに生まれた[n 1]。レルフ家は仲が良く、比較的富裕に暮らしていた。リチャード・レルフは献身的な家庭人で、鋭い実務的洞察力で村で知られていた[4]。彼の初期の富は、一連の成功したウマの売買取引によったが、そのおかげで最初のパブである、フォーカム(Fawkham)のライジング・サン(Rising Sun)を購入することができた。1818年に彼はサラ・アシェンデン(Sarah Ashenden)と結婚し、彼らは8人の子をもうけた。彼女は1845年に死亡した。1851年に彼はカダムに移り、ブラックスミスス・アームズ(Blacksmith's Arms)と隣りの農場を買い、ダブリン出身の子守女家庭教師(nurse-maid governess)である32歳のメアリー・ムーアフィールドとともに新家庭を始めた[3]。
リトル・ティッチは多指症で、両手に余分な指をつけて、小指から中央関節(centre joint)まで癒着して生まれた。彼はまた成長不全をも経験した。彼は10歳までに身長は4フィート6インチ (137 cm)に達したが、それ以上は伸びなかった。他の子らとの彼の肉体的な違いが、彼を、社交的に引っ込み思案にし、孤独にさせた[1]。がそれにもかかわらず、彼の障害は彼に名声をもたらし、両親の仕事にとって財産となった。パトロンらは隣りの諸カウンティーから旅行して彼の変わった点を目撃したものであり、その子供は、せんさく好きな客らに合わせて父親のサルーン・バーで滑稽にダンスし、注目を浴びて大いに喜んだ[5]。
リトル・ティッチは、カダムから徒歩3マイルのノックホルト(Knockholt)で教育を受けた。幼い年齢から、彼はかなりの学力を示し、また芸術にもまた優れていた。彼が5歳であったときまでに、彼のデッサンは、父によってブラックスミスス・アームズのパトロンらに売られていた[6]。リトル・ティッチは、巡業芸人(travelling performers)に興味を持ったが、彼らは父親がしばしば雇って旅館で客を楽しませていた。彼は、ダンサー、歌手、そして手品師のまねをして、家族とパトロンらの両方に多くの楽しみをもたらしたものであった。彼のなりきりぶりはあまりに上手だったので、同胞(きょうだい)らはしばしば彼を近隣のパブに連れて行ったほどである。これらの経験が、リトル・ティッチに、将来のキャリアのために準備させた。自分が見たことの結果として、彼は、父親と同様に、後年、厳格な絶対禁酒者になり、そして酩酊している荒々しい人々に深い嫌悪感を示した。リトル・ティッチは、地元の有名人としての地位を大いに喜んだ。しかし、彼は年をとればとるほど、ますます自意識が強くなり、観客の笑いを、自分のコミカルなパフォーマンスに対するというよりもむしろ自分の障害に対するものとしてまちがって解釈した[6]。
グレーヴセンドへの移動と初期のパフォーマンス
リチャード・レルフは1875年にブラックスミスス・アームズと隣接する農場を売り、一家をグレーヴセンド(Gravesend)に移した[7]。社交的に引きこもったリトル・ティッチは、もっと忙しい環境に順応することを強いられた。日帰り行楽客ら、休暇を楽しむ行楽客ら、釣り人らがしばしば市街を訪れ、港と隣接道路を飾っている多くのパブを占めた。彼は、こんどはクライスト・チャーチ・スクール(Christ Church School)で、教育を再び始め、そこで彼は次の3年間を過ごした[8]。1878年に、校長は、彼がその学校にしてはあまりにも教育的に進歩したと見なし、リチャード・レルフは、そのかわりに若い息子のためにウォッチ時計製作の見習いの身分を確保してやるように助言された。レルフはその助言を無視した[8][9]。
1878年までに、リトル・ティッチの両親は彼をそれ以上経済的に養うことができないでいて、彼は、グレーヴセンドの或る理髪店でラザー・ボーイ(lather boy)として常勤の雇用を求めた[8][9]。ある晩、彼は、兄弟がタレント・コンテストに出場していた友人と一緒に、初めてミュージック・ホールを訪れ、すぐに「夢中」("hooked")[10]になったが、これはパフォーマンスできると考えたからである。主として自分の地元の有名人の地位が「奇形の人」("freak")であったおかげで[11]、彼は、多くのパブに喜んで迎えられ、そこではロンドンからの兵士、船員(sailors)、商船船員(merchant seamen)、日帰り行楽客のために料理を提供した[12]。
1878年までに、リトル・ティッチは自分でティン・ホイッスルを買うのに十分なお金を貯めていたが、それを彼は用いて「その日の陽気でセンチメンタルなパントマイムの唄をすべて演奏して楽しんでいた」("amuse [him]self by playing all the jolly and sentimental pantomime songs of the day")[13]。金を稼ぐために、彼は、外で行列を作って待っている地元の好劇家を相手に大道芸を始めた。大道芸からの帰り道で、彼は、エキセントリックなダンスを考案して、見物している近所の人々をおおいに楽しませた。1879年に12歳で、リトル・ティッチは、ハリー・レルフとして、ステージ・デビューを果たした。その現場はーー未確認ではあるがーー娘メアリーの記述によれば、「自由気ままな、裏通り」("back-street, free-and-easy")で、出し物は大部分はアマチュアと初心者で構成されていた。観客はしばしば辛辣で、ステージ上に物をほうり投げて不快感を表示したものであった[13]。
ある晩、司会者が、アマチュア・タレントのリストを使い果たして、次の番はリトル・ティッチとティン・ホイッスルに続けるように求めた。公演は成功し、リトル・ティッチは毎夜、もどったが、そのときはしばしば、ティン・ホイッスルの曲に、おきまりの即興ダンスを合わせた[14]。彼の公演のニュースの広がりにより、彼はすぐに隣りのロイヤル・エクスチェンジ・ミュージック・ホール(Royal Exchange music hall)の所有者によって署名契約され[15]、所有者は彼の新しい署名契約に1足の木靴を買ってやった。リトル・ティッチは、ホールの人気のある呼び物となり、しばしば一夜で30曲を歌った。彼がブラックフェイス(blackface)の芸を発見したのはここにおいてであったが、これは当時ブリテン諸島で広くパフォーマンスされていた人気のある娯楽の型である[16]。 [n 2]
1880年代
初期のロンドンの契約
1880年代初めに、リトル・ティッチは「ザ・インファント・マクニー」("The Infant Mackney")というステージ名を採り[n 3]、そして野外劇場の世界に卒業した。翌年、彼はロシャーヴィル・プレジャー・ガーデンズ(Rosherville Pleasure Gardens)で定期パフォーマンスしていたブラックフェイスの劇団に加わった[18]。地元の歴史家J.R.S クリフォード(J.R.S. Clifford)は、彼らを、「優れた型のミンストレル黒んぼどもの一味」("a band of minstrel darkies of a superior type")と形容した[19]。リトル・ティッチによるアマチュアからプロのパフォーマーへの推移は、彼がチャタム_(イングランド)のバーナーズ・ミュージック・ホール(Barnard's Music Hall)に毎週出演したときに、起こった[1][20]。ホールの所有者ルー・バーナード(Lew Barnard)は、彼に、週35シリングを支払おうと申し出た。きちんとしたミュージック・ホールに登場しそうな見込みに身震いして、リトル・ティッチは、名前をザ・インファント・マクニー(The Infant Mackney)からヤング・ティッチボーン(Young Tichborne)に変えたが、これは、何年も前にカダムに住んでいるあいだに彼がつけられたニックネームである[21][n 4]。彼はバーナーズで最初の成功を享受したが、観客数はすぐに減少し、その結果、彼の給料は週15シリングに減った。収入を補うために、彼は理髪店でふたたび職につき、一連のつまらない仕事を引き受け、それは半年間、続いた[24]。
1881年に、リトル・ティッチは姉アグネス(Agnes)と共に家を出たが、彼女はイングランドじゅうのミュージック・ホールとバラエティー・クラブで弟に付き添った。そのときまでに、彼は、ティン・ホイッスルをピッコ・パイプ(picco pipe)に替えていて、それを彼は、おきまりの木靴ダンスの伴奏に用いた。彼は、しばしば金銭も食べ物もほとんどなしに安宿に泊ることを強いられたから、地方旅行の初期の経験を忌み嫌った。生き抜くために、彼はしばしば、ミュージック・ホールの外で待っている聴衆にむかって大道芸をすることに戻ったものである[25]。1884年前期に、彼は、キダーミンスター(Kidderminster)のザ・ドルフィン(The Dolphin)という荒廃したパブで契約を確保し、そこで週2ポンドを支払われた[26][n 5]。彼はまた、最初の代理人を雇ったが、代理人は、リトル・ティッチにないしょで、彼を「奇形の人」("freak")および「6本指の新奇な人」("six-fingered novelty")として宣伝していた[28]。このコメディアンは、その説明に激怒し、すぐにその代理人の業務をなしにした[29]。夏の数ヶ月間までに、彼の契約はまれになっていたから、彼は、長期の失業を建設的に利用した。彼は、楽譜の読み書きを学び、ピアノ、バイオリン、そしてチェロを含むさまざまな楽器の演奏を独習した。彼はまた、大きなブーツをはいてダンスすることを習得した[28][n 6]。
1884年11月に、彼は、3つ目のステージ名を、リトル・ティッチ(Little Tich)に変えたが、これはティッチボーン(Tichborne)に由来し、"Tich"または "Tichy"は、小さな、を意味する共通の用語になった[22][30][n 7]。彼の名前変更の論法は、ティッチボーンの請求者詐欺師アーサー・オートン(Arthur Orton)の釈放を利用するというもので、彼は当時、ブリテン諸島をツアーして、陳述を開始することを願っていた[31]。名前の変更はまた、ロンドンで「最も利口な、最年少の[ショー]ビジネスの1人」("one of the brightest and youngest in [show]business")として知られていた新しい代理人の署名契約と時期が一致した[32][33]。その代理人エドワード・コリー(Edward Colley)(1859年-1889年)[34]は、新たなスターの獲得に同様に身震いし[30]、そして彼に二重契約を確保し、彼はメアリーボーン・ミュージック・ホール(Marylebone Music Hall)に「リトル・ティッチ、創造では最も好奇心旺盛なコミーク」("Little Titch, The Most Curious Comique in Creation")として、その直後にフォレスターズ・ミュージック・ホール(Forester's Music Hall)に、登場し[1][35]、そこでは彼は「リトル・ティッチ、おかしな小さな黒んぼ」("Little Titch, the Funny Little Nigger")と広告された。『The Era』の記者は、つぎのように予言した、「リトル・ティッチは、あらゆるユーモアをそなえた黒んぼコメディアンの事業に投資し得る数少ない人物の1人であるように思われるから、われわれは十中八九、彼についてもっと多くのことを聞くだろう」("We shall probably hear a great deal more about Little Titch,〔ママ〕as he seems to be one of the few that can invest the business of the Negro comedian with any humour")[36]
1884年のクリスマスまでに、リトル・ティッチは、ロンドンの4つのミュージック・ホールの常駐パフォーマーであった:ミドルセックス・ミュージック・ホール(Middlesex Music Hall)、そこで彼は午後8時の興業広告、メリルボーン(Marylebone)(午後9時)、バーモンジー(Bermondsey)のスター・パレス・オヴ・ヴァラエティーズ(Star Palace of Varieties)(午後10時)、そしてマイル・エンド(Mile End)のクラウダーズ・ミュージック・ホール(Crowders Music Hall)(午後11時)。4つのホールのうち、彼はメリルボーンで最も成功し、連続10週間の公演を果たした[37]。『The Era』の或る批評家は、彼がメリルボーンでパフォーマンスするのを目撃して、彼は「好奇心旺盛な喜劇役者」("a curious comic")だ、「彼のおどけたしぐさ、言ったこと、仕事は概して非常に面白いし、彼は、たとえ黒んぼの描写者にしてさえも、歌唱は現在は弱いし、よくなるだろう」("his antics, his sayings and his business generally [were] very amusing, and he will doubtless improve in his singing, which is weak at present, even for a Negro delineator")と考えた。 コメンテーターはさらに注目した、「彼は現在ははかなり若い男性であるようにみえ[た]。しかし彼のダンシングは特別に面白いが、ただし彼のキャラクターの1人の服装は下品で思わせぶりだ。これは変えるべきだ」("he appear[ed] to be quite a young man at present;but his dancing is peculiarly funny, though his dress in one of his characters is vulgar and suggestive;this should be altered")[38]
1年間近くロンドンで成功してきて、リトル・ティッチは、1885年-1886年のクリスマス・シーズンに、スコットランドに行き、初めてパントマイムに登場した。『ロビンソン・クルーソー』は、グラスゴーのロイヤル・プリンセス劇場(Royal Princess Theatre)で開かれ、彼は、チリンゴワダボリー(Chillingowadaborie)という端役で現れたが、これは主人公らの1人のための黒い顔をしたアテンダント、タムタム王である[39][n 8]。次のクリスマスに、リトル・ティッチは、パントマイムで2度目の主演をしたが、こんどは、『シンデレラ』の作品で、ホワイトチャペル(Whitechapel)のパヴィリオン・シアター(Pavilion Theatre)においてで、そこで彼は「いたずら王」("King Mischief")を演じた[40]。
アメリカの成功
アメリカの興行主 トニー・パストー(Tony Pastor)は、1886年にイングランドにやって来て、アメリカのツアーのためにリトル・ティッチと署名契約した。パストーは、このコメディアンがウェストミンスター橋の近くのガッティス=イン=ザ=ロード(Gatti's-in-the-Road)という小さなミュージック・ホールでパフォーマンスするのを見ていて、自分のゲイエティー・シアター・コメディー(Gaiety Theatre Company)のために新人を募集していた[41][42]。リトル・ティッチは1887年前期にアメリカに向けて発ち[40]、そしてバーレスク版の『ノートルダムの鐘』(The Hunchback of Notre-Dame)でパストーのために最初の役を担い、週10ポンドの報酬で主人公を演じた[41]。のちに、ルイ・ベルタン(Louis Bertin)のオペラ『La Esmeralda』のパロディーで成功した連続上演の間に、彼は、「ビッグ=ブート・ダンス」("Big-Boot Dance")で観客をつよく印象づけ、パスターは、モックーオペラのさらに2シーズンのために新たなスターと契約し、そのモックーオペラはあわせて連続9か月、上演を持っていた。記録的な利益と大規模な観客の入場に対する彼の感謝を示すために、パストーは、リトル・ティッチに金メダルと珍しい白いボヘミアン・シェパード・ドッグをプレゼントし、このコメディアンはそれをチェリ(Cheri)と呼んだ[40]。
リトル・ティッチがパストーの下で成功したことで、彼は、シカゴ・ステート・オペラ・カンパニー(Chicago State Opera Company)の注目を集め[43]、カンパニーは彼を2年間の契約で週150ドルの料金で確保した[44]。契約が始まる前に、彼はイングランドに戻ることを許可され、彼はイギリス、ブライトンのシアター・ロイヤル(Theatre Royal)で『Dick Whittington and His Cat』に出演して、パントマイムの契約を守った。その作品の中で、彼は、「タイニー・ティッチ」("Tiny Titch")という広告を出され、ミューリ皇帝(Emperor Muley)を演じた[44]。1888年6月に、シカゴ・オペラ・ハウス(Chicago Opera House)で、リトル・ティッチは、『ガラスの靴』(The Crystal Slipper)に主演したが、これはおおまかに「シンデレラ」を原作とするバーレスクである[n 9]。この作品は、このコメディアンにとって大当たりとなり、10か月超の連続公演を完了した[45][46]。『The Era』は、彼を「風変わりで面白い黒んぼコメディアン」("the quaint little Negro comedian")と表現し、彼のアメリカの契約を「輝かしい成功」("brilliantly successful")と称した[47]。『The Crystal Slipper』の間に、リトル・ティッチは、イギリスのダンサー ローリー・ブルックス(Laurie Brooks)と出会い、1889年1月20日にクック郡_(イリノイ州)で結婚した[45][n 10]。その年はリトル・ティッチのおきまりの「黒くする」("blacking up")出し物の終わりを印づけ、彼はそれをシカゴ・ステート・オペラ・カンパニーのための契約の間に実行していた。彼は或るプロデューサーから、たとえアメリカの観客であれ、黒い顔とイギリスなまりとがあまりにも対照的だと思うだろうし、「たとえ片眼のつんぼでおしであれ、おめえが黒んぼだってわかるだろう」("a deaf mute with one eye could see you aint a coon")と言われた[46]。リトル・ティッチは当初、メーキャップなしでステージに登場することで悩んでいたが、観客が変化をよしと認めたことがわかった[49]。

月々が進むにつれて、ツアーは成熟し、彼の公演のニュースはアメリカじゅうに伝わった[44][n 11]ブラックフェイスの芸の喪失を補うために、リトル・ティッチは、その代わりにビッグ=ブート・ダンスを完成させ、10 - 28インチ (25 - 71 cm)ブーツから取り替えたが、彼はその大きさのほうがちょうどよいと思った。彼はまた、早変わりを習得して新奇な履き物にしていたが、彼はそれを数分間で演じることができた。或る舞台監督は、一時停止が観客が待つには長すぎることを心配するようになり、ブーツをステージ上に投げ、スターに、待っている観客の前で、走り出させ、彼らの前にブーツをはかせた[50]。彼がこうしている間、楽団は「"till ready"」(「準備ができるまで」の意)の伴奏を提供した[51]。聴衆にとって、これは多くの陽気を提供し、彼らはそれも芸の一部だと思った。故意ではないスケッチは、「すぐの大当たり」("an instant hit")で[52]、このコメディアンは、これを、将来のおきまりのビッグ=ブート・ダンスに組み入れた[53]。
1889年4月に、リトル・ティッチは、短期間、ロンドンに戻り、レスター・スクウェアのエンパイア・シアター(Empire Theatre)で主演したが、観客にあまり受け入れられなかった。その結果、劇場の経営者は、このコメディアンの賃金を週6ポンドに引き下げた[53]。この経験で彼はイギリスのエンターテインメント業に対して悪い感情を持ち、彼はアメリカに戻り、シカゴ・ステート・オペラの新作に登場した。作品『Bluebeard Junior』は、先任者ほどは成功しなかったが、7か月間、ツアーした。彼の悪評がイングランドに戻ったにもかかわらず、リトル・ティッチは郷愁を感じ始め、契約満了の数ヶ月前に家に帰ることを許された[54]。いっかい戻って、彼と彼の妻はランベスケニングトン・ロード182番地(182 Kennington Road)に家を建てた。ローリーは後に1889年11月7日に夫婦の息子ポール(Paul)を産んだ[44][55]。
1890年代
ロンドンへの帰還とウェスト・エンドのデビュー
1889年後期に、リトル・ティッチは、ピカデリーサーカスのロンドン・パヴィリオン(London Pavilion)の契約を確保した[n 12]。こんどは、彼は、イングランドの批評家らは、自分の才能についてはお世辞を言っていると思ったが、彼らの称賛は主にアメリカでの成功に関するものだったので、彼はそれらを偽善的と見なした[54][56]。彼のはるかに改善されたパフォーマンスのニュースは全国各地に伝わり、彼は、マンチェスターのプリンスズ・シアター(Prince's Theatre)の経営者トーマス・W・チャールズ(Thomas W. Charles)の訪問を受けた。チャールズは、リトル・ティッチに、自分の今後のパントマイム『Babes in the Wood』の主役を申し出た。1889年 - 1890年の製作は、このコメディアンにとって大成功であり、彼のパフォーマンスは彼に「その晩いちばんの拍手喝采」("the heartiest applause of the evening")をもたらしたと伝えられている[57]。
1890年前期までに、ドルリー・レーン(Drury Lane)のザ・ロイヤル(The Royal)の影響力のある経営者 オーガスタス・ハリス(Augustus Harris)は、マンチェスターに行き、劇場の今後の1890年-1891年のパントマイムのための新しい才能を探していた。自分の見たものに強い印象を受けて、彼は、このコメディアンに、ドルリー・レーンの演劇の住居を申し出たが、リトル・ティッチはさらに1年間チャールズと契約したので、それをひっこめなければならなかった。その代わりに、ハリスは、次のシーズンから始まる2年間の契約でリトル・ティッチと署名契約した。この取引でリトル・ティッチは、週36ポンドで2つのパントマイムに主演しなければならなかった[58]。1890年4月に最高潮に達した『Babes in the Wood』での成功から続いて、劇場経営者ロロ・バルマン(Rollo Balmain)は、彼を、プリマスのシアター・ロイヤル(The Theatre Royal)での『ノートルダムの鐘』の制作においてカジモド役を割り当てた。このショーは、バーレスク・センターピースを呼び物にし、これはリトル・ティッチがバレリーナの扮装をしなくてはならず、彼の最初の唄のうちの2曲、「"Smiles"」と「"I Could Do, Could Do, Could Do with a Bit"」をパフォーマンスする機会を彼に与えたが、どちらも彼のためにウォルター・トリルビー(Walter Tilbury)が書いた[59]。
1890年に、リトル・ティッチは、ロンドンのミュージック・ホールの聴衆を感動させ続け、『Entr'acte』、『Music Hall』の両方の表紙に登場し、後者はロンドンのミュージック・ホール・オーディトリアムの大多数で広く入手可能であった[60]。年末近くに、リトル・ティッチは、ティヴォリ・ミュージック・ホールの開場時に登場し、それから、クリスマスにマンチェスターに戻り、トーマス・チャールズのための彼の2つのパントマイムの契約のうちの2つ目を満たすために、そこで彼はトドルキンズ(Toddlekins)を演じた[61]。翌年、彼はカジモドの役を再演し、バルメインの劇団とともに『ノートルダムの鐘』で地方をツアーした[62]。
ドルリー・レーンでの人生
1891年は、リトル・ティッチの経歴で新時代の前兆となった。ドルリー・レーンのパントマイムは、その贅沢さと素晴らしさで知られ、豪華なセットと大きな予算が特徴だった[63][n 13]。リトル・ティッチが登場したドルリー・レーンのパントマイムの最初は、1891年の『ハンプティー・ダンプティー』(Humpty Dumpty)で[67]、これはまた、ドルリー・レーンの常連メアリー・ロイド、ダン・レノ、およびハーバート・キャンベルをも主演させた[68]。題名役をのみならず[69]、リトル・ティッチは、ハーレクネードでイエロー・ドゥウォーフ(Yellow Dwarf)の端役をも演じた。彼がビッグ=ブート・ダンスを復活させたのは、後者の人物作りの間で、このダンスは観客に大足りであった[70]。次のクリスマスで、彼は、この成功に匹敵する物を、彼の2つ目のパントマイム『Little Bo-Peep』で成し遂げ、そこで彼は「"Hop of my Thumb"」の役を演じた。レノ、ロイド、およびキャンベルと同様に、ハリスは、歌手エイダ・ブランチ(Ada Blanche)およびセシリア・ロフタス(Cecilia Loftus)をそれぞれプリンシパル・ボーイおよびプリンシパル・ガール(女性が演じる女性主役)として採用した[71]。ハリスはリトル・ティッチに身震いし、1893年-1894年のパントマイム『ロビンソン・クルーソー』のために彼と署名契約し、そこで彼はフライデイを演じた[72][73]。『Derby Daily Telegraph』は、このコメディアンを「史上最も面白いパントマイムのデイムの一人」("one of the most amusing pantomime dames of all time")と呼んだ[74]。3万ポンドの予算にもかかわらず、『ロビンソン・クルーソー』は、前の2つのショーの成功に匹敵せず、そのためにハリスはキャストを再考せざるをえなかった。ハリスの計画を知らずに、リトル・ティッチは、昇給してもらうつもりで彼に近づいた。提案は経営者を怒らせ、彼の要求が拒否されただけでなく、彼はまたいっさいの将来の制作から除外されもした[70]。
劇場での新たな冒険的試みと国際的な契約
1891年前期に、リトル・ティッチは、ドイツのツアーを終えた。2年後、彼は、自身の振り付けのスケッチ『サーペンタイン・ダンス』(The Serpentine Dance)のためにミス・ターペンタインにみがきをかけ、つぎの3年間、ハンブルク、ジュネーブ、ロッテルダム、ブリュッセル、ニース、モンテ・カルロ、バルセロナ、そしてブダペストでパフォーマンスした。このツアーのおかげで、彼はフランス語、ドイツ語、イタリア語、そしてスペイン語に堪能になることができた[75]。彼は、ミス・ターペンタインを、寸法が合わないチュチュを着けている、風変わりなバレリーナとして描いた。このダンスは、ロイ・フラーのものである有名なスカート・ダンスのコミックなヴァリエーションであったが、これは何年も前にフランスで流行していた[76]。もう一つの成功した人物作りは、風変わりなスペインのダンサーのそれであったが、リトル・ティッチはそれを、ヨーロッパを旅行しながら考案したが、それは『サーペンタイン・ダンス』のように、エキセントリックな唄と冗談の朗読ではなくアクロバットふうの振り付けとコミックなマイミングに大きく頼っていた[77]。
リトル・ティッチが駆け出しの芸人の協同団体、グランド・オーダー・オヴ・ウォーター・ラッツ(Grand Order of Water Rats)に勧誘されたのは、このころであった。1906年に、彼は命令のための「キング・ラット」("King Rat"、ハツカネズミ王)として勤めることになる[78]。1894年に、ドルリー・レーンでの契約上の義務から解放されて、彼は、イングランドのミュージック・ホール界から3年間の休暇を取り、フランスに行き[74]、多くの契約を果たした。次の10年間、彼は自分の時間をそことイングランドとに分けた。1895年前期に、彼はミュージック・ホールからヴァラエティー・シアターに移ったが、これは彼の同時代者の多くがすでに成功裡に達成していた移行である。『Lord Tom Noddy』は、1896年9月に披露され、2か月間、ロンドンのギャリック・シアター(Garrick Theatre)で連続公演された。この作品は、首都ではほとんど成功しなかったが、地方では好評だった[79][n 14]。ショーは、リトル・ティッチにまじめな俳優としての自分を宣伝し、単に「ミュージック・ホール出身の奇形のこびと」("deformed dwarf from the music hall")であるという評判から自分自身を切り離す機会を与えた[80]。観客は「たいへん大勢で」("very large")、その「爆笑は頻繁かつ大音量だった」("bursts of laughter w[ere] frequent and loud")と形容された。『Edinburgh Evening News』の記者は、リトル・ティッチは「このスケッチの生命で魂」("the life and soul of the sketch")だ、その歌唱は「ダンスがきびきびしている間はかなり良かった」("fairly good while [his] dancing was smart")、と考えた[81]し、いっぽう批評家ウィリアム・アーチャーは、リトル・ティッチを、「ミュージック・ホールのカジモド[『ノートルダム・ド・パリ』のせむしの男]で、その才能は敏捷さと奇形のグロテスクな組み合わせにある」("Quasimodo of the music halls, whose talent lies in a grotesque combination of agility with deformity")としてしりぞけた[82]。
彼は、1895年半ばに自身の劇団を結成し、自分の最初のプログラム『Lord Tom Noddy』をプロデュースし、そこで彼はまた主演もした。彼は、劇作家ジョージ・ダンス(George Dance)に作品を書くように依頼し、彼を劇団のパートナーにした[79]。1896年12月11日に、リトル・ティッチは、招待されてフランスのフォリー・ベルジェールに登場し、そこで彼は短い作品にミス・ターペンタインとして主演し、ビッグ=ブート・ダンスをパフォーマンスした。『Sunday Referee』の記者は、「4年前のロイ・フラー以来、そのような成功を収めたアーティストはいない」("no artist since Loie Fuller, four years earlier, had scored such a success")と主張し[83]、その結果、彼はフォリーズで2年間の契約に署名した[84]。リトル・ティッチは1897年後期にイングランドに戻り、そこで彼は自分の劇団の2つのショーのうち2つめのショー、『Billy』と呼ばれるミュージカル・コメディーをセルフ・プロデュースした[85][n 15]。ニューカッスル(Newcastle)でオープンした後、ショーは健康的な地方ツアーを楽しんだにもかかわらず、或る記者は、「それはあまり魅力がなかった」("it ha[d] not very much to recommend it")が、リトル・ティッチは「いくつかすばらしいおどけをしてみせ」("some excellent fooling")、「いくつかの変わった言動は笑わないでいることなどできなかった」("[was] impossible not to laugh at some of the eccentricities")と考えた[87]。しかし、このファルスは、ロンドンのウェスト・エンドには届かなかった。リトル・ティッチはこれを鼻であしらわれたと見なし、彼はふたたび首都でパフォーマンスすることを断った。その代わりに、彼は、サウス・シールズに行き、そこで彼は『Giddy Ostend』という成功した短い劇に一時的に登場し、それからフランスに退却した[86]。
1898年に、ジョセフ・オラー(Joseph Oller)によって捜し出されたのち、彼はフォリーズの契約を満了直前に破り、オラーは、彼を、パリのオリンピア・ミュージック・ホール(Olympia Music Hall)でパフォーマンスするために雇った[84][88]。契約違反ののち、フォリーズの経営者エドゥアール・マルシャンは、このコメディアンに対する訴訟を起こし、このコメディアンは、法廷外で開示されていない金額で解決した[84]。演劇マネージャー チャールズ・B・コックラン(Charles B. Cochran)は、この期間にこのコメディアンのパフォーマンスを見ていたが、彼を、「中世のこびと裁判官の生まれ変わり-ベラスケスの小さなイギリスのドン・アントニオ」("a reincarnation of the dwarf court-jesters of the Middle Ages – the little English Don Antonio of Velasquez")と形容した[89]。このときまでに、リトル・ティッチはイギリスの観衆に対して欲求不満を感じるようになった。『Billy』がロンドンに到達できず、フランスと比べてイギリスの首都での成功の水準が異なるため、彼は、世紀の最後の数年間は、イギリスのヴァラエティー劇場界を完全に避けた。その結果、彼は、あまり人気のないミュージック・ホールに戻り、そこに経歴の最後までとどまった[90]。
1900年代
結婚トラブル
1894年9月に、リトル・ティッチとローリーは、パリのラファイエット通り(rue Lafayette)に家族の家(family home)を建てた。1897年に、リトル・ティッチがイングランド、ドイツ、そしてオーストリアのツアーを行っていたいっぽうで、ローリーはフランスの俳優フランソワ・マルティー(François Marty)とともにベルリンに駆け落ちし、幼い息子ポールの責任を夫に負わせた[91]。ポールの面倒を見ることができず、リトル・ティッチは、彼をイングランドにやり、親戚らと同居させた[92][n 16]。その年、リトル・ティッチは、ダンサーのフリオ・レシオ(Julia Recio)に会い[n 17]、 パリのオリンピア・ミュージック・ホール(Olympia Music Hall)での契約中に、2人は関係を始めた。彼らは、パリのポワッソニエール通り(boulevard Poissonnière)のフラットに移り、そこに一緒に住んだが、ただし1901年のローリー・レルフの死の後までこれを秘密にしていた[98][n 18]。1900年に、リトル・ティッチはフランス資本のフォノ=シネマ=テアトル(Phono-Cinéma-Théâtre)に出演し、そこで彼はビッグ=ブート・ダンスをパフォーマンスし、フランスの監督クレマン=モーリス(Clément-Maurice)によってフィルムに記録された。数年後、映画作者ジャック・タチは、この作品を「スクリーン上のコメディーで実現されてきたすべてのものの基礎」("a foundation for everything that has been realised in comedy on the screen")と呼んだ[100]。
1902年、リトル・ティッチは、ティヴォリ・シアター(Tivoli theatre)で、『The Revue』と呼ばれる、メアリー・ロイドとの特別な1回限りのレビューで主演したが、これはエドワード7世の戴冠式を祝って上演された[101]。翌年、リトル・ティッチのオックスフォード・ミュージック・ホールでの公演は、『The Cornishman』新聞の記者によって「...非常にこっけいな順番」("... a very droll turn")と形容されたが、彼はまた彼のビッグ=ブート・ダンスを「すばらしい」("wonderful")と評した[102]。リトル・ティッチは、ロンドン、キルバーン(Kilburn)のテインマス・ロード1番地(Teignmouth Road)の別のロンドンの財産を賃借し、ジュリアといっしょの生活から逃れたが、彼はそれをますますつまらないと思うようになりつつあった[103]。彼らの問題にもかかわらず、彼は、1904年3月31日にセントジャイルズ登録事務所(St Giles Register Office)で控えめなロンドンの式を挙げてジュリアと結婚し[98]、ブルームスベリーのベッドフォード・コート・マンションズ44番地(44 Bedford Court Mansions)というさらに遠い住所に賃借した[104]。最初は幸せであったが、結婚は急速に悪化したが、これは、社交活動および金銭に対する異なる意見の結果であった。ジュリアは、社交的で金遣いの荒い人物であったが、リトル・ティッチは、もっと静かで質素な暮らしぶりを選び好んだ[103]。
1906年までに、リトル・ティッチとジュリアはあまりにも疎遠になっていたので、彼女は、夫が賃借した隣のフラットに移ったほどである。この夫婦は、その別離をいちども公に発表せず[105]、彼は、次の20年間、妻のために経済的支援を提供したり、贅沢な暮らしぶりに資金を供給したりし続けた[106]。数年後、ポール・レルフは、次のように認めた、「父とジュリアはけっして互いに愛し合っていなかった。かわいそうな、かわいそうな父。彼の人生は、彼女を通じて一つの長い悲惨であった」("Father and Julia never loved one another.Poor, poor father.His life was one long misery through her.")[107]。次の4年間に、リトル・ティッチは、イングランドとフランスの両者で、パフォーマンスを続け、1年あたり1万ポンドを稼いだ[108]。1905年に、彼はフランスの映画産業のためのさらに3本の映画の2本めに登場した、すなわち、ジョルジュ・メリエス監督の『Le Raid Paris – Monte-Carlo en Deux Heures』。その後、1907年に『Little Tich』、2年後に『Little Tich, the Tec』が続いた[100]。1907年に、リトル・ティッチは南アフリカに行き、そこで彼は週500ポンドの料金で9週間の契約に成功した[109]★[n 19]。その後すぐに、彼は、イングランドに戻り、ミュージック・ホール戦争(Music Hall War)に参加した[74]が、これは、ヴァラエティー・アーティスツ・フェデレーション(Variety Artistes 'Federation)[110]、ミュージック・ホールのパフォーマーを代表して、より多くの自由とより良い労働条件を求める闘争[111]であった。1909年に、彼は、ベルファスト・ヒッポドローム(Belfast Hippodrome)でステージでサーペンタイン・ダンスの公演中に片脚に重傷を負った。聴衆のなかの医師が片膝が脱臼していると診断したために、このコメディアンは回復に7週間を要せざるを得なかった。リトル・ティッチのパフォーマンスは、『Evening Telegraph and Post』の記者によって、「最新のものを取り入れている」("up to date")と形容され、サーペンタイン・ダンスは「人気の点ではビッグ=ブート・ダンスに次いでいる」("next to the Big-Boot Dance in popularity")と記述された[112]。
記録する経歴と新しい家族
1910年に、リトル・ティッチは、ロドルフ・クノッパー(Rodolphe Knoepper)の養父になった[n 20] が、彼は、ロシアのアクロバット ハリー・アラスカ(Harry Alaska)の兄弟に1899年に生まれた孤児であった。アラスカは以前、彼の着付師としてリトル・ティッチのために働き、彼の死後、クノッパーはフランスのレルフの住居に移り、そこで彼の教育を始めた。リトル・ティッチと一緒に暮らして数ヶ月後に、彼はロンドンに移り、ジュリア方に泊った。後年に、リトル・ティッチの娘メアリーは、彼女の父親はクノッパーをポールよりも息子のように扱った、ポールは1920年代までに家族と疎遠になった、と認めた[114]。1910年にパリにいた間、リトル・ティッチは、フランス国民教育省(French Ministry of Public Instruction)によって、舞台への奉仕のために、教育功労章(Ordre des Palmes Académiques)のオフィシェ(英語原文:officer)にされた[115][116]。
1910年の終わりごろ、彼はスコットランドに行き、ダンディー(Dundee)のキングズ・シアター(King's Theatre)での短い契約を完了した。彼のパフォーマンスは、『Evening Telegraph』の劇評家によって、「まったくの本物の楽しみ」("downright genuine fun")で「たいへんおもしろい」("very entertaining")と形容された[117]。翌年、リトル・ティッチは、彼のミュージック・ホールの曲の選択の最初を、初期の音響記録プロセスで使用される片面シェラック・ディスクに記録した。唄には「「ガス検査員」」("The Gas Inspector")、「"King Ki-Ki"」、「"The Toreador"」および「"The Zoo Keeper"」などが含まれ、2年後には 「ウェイター」("The Waiter")、「"The Weather"」、「"The Don of the Don Juans"」および「"A Risky Thing to Do"」が続いた[118]。
1915年に、リトル・ティッチは、ゴルダーズ・グリーン・ヒッポドローム(Golders Green Hippodrome)で契約を短くし、パリでもっと良い申し出をうけいれた。結果として、ヒッポドロームの所有者は、契約違反の訴訟を起こし、彼は補償として103ポンドを支払わなければならなかった[119]。その年、彼は 「"The Tallyman"」、「"The Gamekeeper"」、「"The Skylark"」および「"The Pirate"」をディスクに記録し[118]、それからイギリス北部の地方に向かい、その年の、リバプールのロイヤル・コート・シアター(Royal Court Theatre)で、クリスマスのパントマイムの準備をした。彼がウィニフレッド・ラティモア(Winifred Latimer)(1892年-1973年)に会ったのは、そこにおいてであったが、彼女は、歌手兼女優で、数年前にシーモア・ヒックス(Seymour Hicks)の下でロンドンの舞台でいくらかの成功を収めていた[120][n 21]。ティッチとウィニフレッドはどちらも、クリスマスのパントマイム『船乗りシンドバッド』に主演しており、そこではリトル・ティッチが題名役を演じ、ウィニフレッドが彼をプリンシパル・ボーイとして支えた[122]。2人は親密になり、彼女の両親の願いに反して、彼らは関係を始めたが、それは1916年の初め、パントマイムが閉鎖する直前であった[122]。『船乗りシンドバッド』(Sinbad the Sailor)は大成功となり、ウィニフレッドはパフォーマンスを賞賛され、それを彼女はリトル・ティッチから受けた指導のおかげだとした[123]。
1916年に、ウィニフレッドは、キャムデン(Camden)の賃借フラットに移ったが[124]、そこはリトル・ティッチによってベッドフォードスクエアの彼の家に近いために選ばれた。このために彼は気づかれるおそれがより少ないまま彼女を訪ねることができた[125]。1917年に、彼は、「"Tally-Ho!"」と「"The Best Man"」をシェラック盤に記録したが、これは彼のレパートリーの最後の2曲であった[118]。その年、ウィニフレッドは妊娠し、そのために彼女のステージ上のキャリアは終わり、それでリトル・ティッチは計り知れないほど喜んだ。しかし、ウィニフレッドは彼女の家族に追放され、未婚の母として、経歴のない、残っている演劇的な野心をこれまでに実現する可能性のない人生と闘わなければならなかった[126]。1918年2月23日に、リトル・ティッチがブライトンでパフォーマンスしているあいだ、彼女は娘を産み、これにメアリー(Mary)と名づけた[124]。彼女とメアリーはそれから、メリルボーンのグロスター・プレイス64番地(64 Gloucester Place)に移った[127]。
晩年と死去
1920年までに、リトル・ティッチとウィニフレッドの両親との関係は改善し、彼らは彼を家族の中に迎え入れた[128]。娘と情婦のためにメリルボーンに新しい6室のフラットを借りたにもかかわらず、このコメディアンはいまや、自分の収益でウィニフレッド、メアリー、およびジュリアの生活を支えることがますます難しくなっているとわかりかけていたが、これは気前の良い年月が彼の貯蓄を劇的に使い果たしていたからである[129]。1921年と1922年の彼の年収は、9750ポンドを超えていたが、1923年までに3743ポンドに落ちた。1925年に彼は6,300ポンドを稼いだが、これが翌年、わずか2100ポンドに落ちた。極端な減給に悩んで、彼は、ジュリアの支払いを減じ、これが彼女の家族を怒らせた[130]。もう一つの節約計画は、ロンドンの複数の不動産の賃借をやめ、代わりに小さな家屋1つを抵当に入れることであった。ウィニフレッドとの情事についての憶測を避けるために、彼は、ベッドフォード・コート・マンションズ(Bedford Court Mansions)に残ることに決め、1925年9月、ロンドン北西部のヘンドンのシャーホール・パークに新しく建設された家を購入し、ウィニフレッドとメアリーはそこに移った。その後まもなく、彼は、ヨーロッパの成功したツアーを始め、それはその年のクリスマスで頂点に達した[131]。彼はロンドンに戻り、ロンドン・コロシアム(London Coliseum)でクリスマスの慈善興行に参加し、そこでビッグ=ブート・ダンスをパフォーマンスした。そのときまでに、そのパフォーマンスは58歳のコメディアンにとってはあまりに努力を要するとわかりかけていたために、彼はその年に引退することに決めた[74]。
1926年1月7日午前に、ジュリア・レルフは、リトル・ティッチが彼女のために賃借していたフラットで、脳出血のために死去した。疎遠にもかかわらず、このコメディアンは、彼女の死去に取り乱し、彼女の遺体とともにアパートメントで2夜を過ごした[132]。数日後、彼は、ウィニフレッド方に引っ越し、そこで彼は「泊まり客」("house guest")として予備の客用寝室に滞在しながら、妻の葬儀を手配した[133]。彼は、しばしばベッドフォード・コート・マンションズをまた訪れ、ジュリアの書類を整理し、妻が自分の友人エミール・フットガーズ(Emile Footgers)と情事を持っていたこと、彼女が、夫に信じるように仕向けていた以上に10歳年上だったことが彼にわかった[134]。リトル・ティッチはまた、彼女がポールの娘コンスタンス(Constance)の将来の投資としてゴールダーズ・グリーン(Golders Green)の家を買うのに彼のお金を使っていたこと、[n 22][135]妻がコメディアンを恐喝して多額の現金をゆすり取る秘密の詐欺に加担していたことも彼にわかった[136]。露見にもかかわらず、リトル・ティッチは、妻のために深く哀悼の意を表し、死ぬまで彼女のことをいとおしげに話した[137]。
1926年4月10日に、リトル・ティッチはウィニフレッドと結婚した[138]が、それはウェストミンスターキャックストンホール(Caxton Hall)においてで、ほとんど知られることはなかった。その晩晩く、彼は、キャンバーウェル・パレス(Camberwell Palace)に、短いが人気のある契約で登場したが、いっぽう彼の新妻はヘンドンの家に戻った[139]。蜜月旅行のために、一家はブリストルに旅行し、そこでリトル・ティッチはフランスの女優ミスタンゲットとともにステージに登場し、彼女は、彼に、大きなブーツを履いている、貢物ふうの彼の金(きん)の像を贈った。その年の末に、一家はオーストラリアを仕事で訪問し、そこで彼は週300ポンドでシドニーの複数の劇場をツアーした[140][n 23]。彼は、観客から温かい歓迎を受けた[140]。
次の3月に、リトル・ティッチと彼の家族は、イングランドに戻った。彼はその年はステージに1回だけ、11月に登場したが、そのとき、彼は「"The House of Commons of the Commons"」という新しい唄を発表した。登場人物の外見のために、彼は、破れた汚れたフロック、スクラッグかつら(a scrag wig)をつけ、そして家から借りてきた古いモップとバケツを持ち歩いた。その芸で、彼はモップをひょいとすばやく投げ上げ、柄をつかみ、それから歌いながら持ち歩きつづけなければならなかった。ある晩、アルハンブラ・シアターでのパフォーマンス中に、芸当は失敗し、彼はモップで頭に打撃をくらった。痛みにもかかわらず、彼は、その作品を続け、その結果生じているこぶと激しい頭痛のための治療を求めようとしなかった[141]。
1927年の12月のある朝、家族の一日の外出の準備をしている間、リトル・ティッチは妻と会話していて、妻は、シャーホール・パークの階上の、離れた部屋にいた。彼が返答をやめたとき、彼女は心配になり、夫がいる部屋に行くと、彼は椅子にぐったりと意識がなくなっていた[141]。彼は、ガイズ病院(Guy's Hospital)に連れて行かれ、そこで医師らは脳卒中と診断した[142]。彼は唖者になり、右半身の感覚をすべて失ったが、退院し、ヘンドンに帰宅した。彼はしばしば外科医サー・アルフレッド・フリップ(Sir Alfred Fripp)の往診を受けたが、彼は悪性貧血という二次診断をくだし、それがこのコメディアンの発作に手段的な役を演じたと引き合いに出した[141]。
1928年2月10日午前に、リトル・ティッチは、ヘンドンのシャーホール・パークの自宅で、60歳で死去し[143][144]、のちにイースト・フィンチリー共同墓地(East Finchley Cemetery)に埋葬された[145][n 24]。彼の死亡と葬儀は全国的なニュースであった。作家で劇評家W・J・マックィーン=ポープ(W. J. MacQueen-Pope)は、リトル・ティッチはその「肉体的な特性と、小さいことを意味する表現『tichy』」("physical peculiarity and the expression 'tichy', meaning small")のために記憶されるだろう、と予測した。『The Daily News』の記者は、彼を、「その人気が衰えず、その名前は、ミュージック・ホールが30年前に栄えたときと同じくらい1928年に有名であった[唯一の]コメディアン」("[the] comedian whose popularity had never waned and whose name was as famous in 1928 as it was when music-halls flourished 30 years ago")と呼んだ[144]。1974年に書いて、作家ナオミ・ジェイコブ(Naomi Jacob)は、リトル・ティッチはこのさき何年間も記憶に残るだろうと考え、「リトル・ティッチやメアリー・ロイドのような名前は、サルヴィーニ(Salvini)、ベルナール(Bernhardt)、ヘンリー・アーヴィング(Henry Irving)などの名前と同じくらい忘れられる理由はない」("there is no reason why such names as Little Tich and Marie Lloyd should be forgotten any more than such names as Salvini, Bernhardt and Henry Irving")と述べた[146]。
注と脚注
注
- ^ メアリーの旧姓は、リトル・ティッチの出生証明書にはモーヒュー(Morphew)として記録されていたが、彼女の死亡証明書ではムーアフィールド(Moorefield)であった。後者が十中八九、正確であり、娘メアリー・ティッチは、混同を、祖母の強いアイルランドなまりが、ケントの登記所(GRO,General Register Office for England and Wales)の係官によって聞き違えられたことのせいにした[3]
- ^ ブラックフェイスのアーティストとしてキャリアを始めた人気のあるミュージック・ホールのコメディアンには、アルフレッド・ヴァンス(Alfred Vance)とブランズビー・ウィリアムズ(Bransby Williams)をふくむ[16]
- ^ この名は、E.W. マクニー(E.W. Mackney)(1825年ー1909年)に基づき、彼はノーサンバランド、モーペス(Morpeth)生まれの木靴ダンサーで歌手、ブラックフェイスの芸で秀でた[17]。
- ^ このニックネームは1854年のティッチボーン事件に由来するが、これは1860年代と1870年代にビクトリア朝イングランドで発生した法律上の『有名な裁判事件』(cause célèbre)である。主張者アーサー・オートン(Arthur Orton)は肥った男で、そういう身長の人を表すためにティッチボーン(Tichborne)という名前がしばしば使われた。若いころは、リトル・ティッチもまた肥えており、彼は 「若きティッチボーン」("Young Tichborne")として知られるようになった[22][23]。彼が若者として舞台に登場したとき、彼がステージにやろうとしていたとき、またはもし彼が彼の芸と戦っているいたならば、観客はしばしば「さあ来い、小さいティッチボーン」("come on little Tichbourne")と叫んだものであった。1880年代半ばまでに、彼は過剰な体重のほとんどすべてを落としていたが、名前の定着により、オートンの巨人な身長とリトル・ティッチの小ささを比較して皮肉な愛情表現の用語になった[22]
- ^ 週2ポンドは2019年現在の213ポンドに相当する(インフレーション調整済み)[27]。
- ^ 特大の靴をはいて踊る芸は、あるいは「大きなブーツ」("big boots")として知られるようになったが、特大のフラット・シューズを「黒んぼコメディアンら」("nigger comedians")によるこっけいな効果のために使用する、木靴ダンシングに由来する[28]
- ^ この時点まで彼は、正式にはステージ名を3回しか変更していなかったけれども、非公式には少なくとも以下の5つについて広告された:「若きチッチボーン、ポケット・マクニー」("Young Tichborne, Pocket Mackney")。「若きティッチボーン、リトル・ブラック・ストーム」("Young Tichborne, Little Black Storm")。「若きティッチボーン、ザ・ピッコ・ソロイスト」("Young Tichborne, The Picco Soloist")。あるいは単に「タイニー・ティッチ」("Tiny Tich")[30]
- ^ 「チリンゴワダボリー」("Chillingowadaborie")という名前は、『リオン・コミク(lion comique)』アーサー・ロイド(Arthur Lloyd)によって歌われた、素朴な短い唄(ditty)にちなんで名付けられた[39]
- ^ 『ガラスの靴』は、パストーのゲイエティー・カンパニー(Pastor's Gaiety Company)の作家兼デザイナーであるアルフレッド・トンプソン(Alfred Thompson)によって書かれた[44]
- ^ ローリー・ブルックスは1866年に生まれ、メリルボーンのリッソン・グローヴ(Lisson Grove)に住んでいたが、そこは当時はロンドン中心部のスラム地域だった[48]
- ^ ツアー内の他の州と都市には、ニューヨーク、フィラデルフィア、ミネアポリス、ボルチモア、セントルイス、シンシナティ、カンザスシティ_(ミズーリ州)、ミルウォーキー、デトロイト、クリーブランド、ワシントンが含まれた[44]
- ^ ロンドン・パヴィリオンは、元の馬車旅行の宿屋および厩舎の敷地(a former coaching inn and stable yard)内に建てられた。偶然にも、建物がかつて立っていた旧道は、ティッチボーン・ストリート(Tichborne Street)と呼ばれた[54]
- ^ 各作品は、バレエ・ダンサー、アクロバット、そしてマリオネットとともに、100人超のパフォーマーのキャストを持ち、活発なハーレクイナード(harlequinade)のみならず、精巧な変身場面をも含んだ。主な作家は、1889年の彼の死去までは、エドワード・ブランチャード(Edward Blanchard)で、ハリスはしばしば共作家として活動した[64][65]。ハリスは、各作品の配役に責任を負い、ミュージック・ホールのパフォーマーがプリンシパル・ボーイ(principal boy)(女性が演じる男性主役)とデイム(dame)(男性コメディアンが演じる滑稽な中年のおばさん)の役割を演じることに賛成し、ブランチャードは同意せず、その代わりに年季の入った俳優を使いたがった。1885年に論評して、ブランチャードはつぎのように言った、「わたしの滑らかで尖った線が、ふぞろいな散文と愚の骨頂に変えられる。わたしが意図したとおりにはほとんどなされず、わたしが書いたとおりには話されず、ミュージック・ホールの要素が残りを粉砕し、なつかしいおとぎ話は二度と描写されなかった」("My smooth and pointed lines are turned into ragged prose and arrant nonsense.Hardly anything done as I intended or spoken as I had written, the music hall element is crushing the rest and the good old fairy tales never to be again illustrated as they should be.")[66]
- ^ 物語は、少年ロード・トム・ノディ(Lord Tom Noddy)の幼い頃に関係したが、彼は野心的な(しかし同様に貧弱な)貴族で、幼児期の乳母と恋に落ちる[79]
- ^ 物語は、ビリー・ヴァヴァサウアー(Billy Vavasour)という人物を中心とし、彼はスポーツ好きな貴族の一員で、厳格な陸軍将軍の娘を追いかけている。このショーは、エドワード朝の女優イーヴィー・グリーン(Evie Greene)が共演した[86]
- ^ ポール・レルフは、父親が息子の将来のキャリアのために願っていたウォッチ時計製造職人になるという考えを避け、その代わりにパフォーマーになった。14歳から、ポール・レルフは、父親から引き離され、父親は仕事に長い時間を費やした[93]。このために、彼は、17歳まで厳格なおばミリー(Aunt Millie)に育てられ[94]、そのとき、彼は家を出て、フレッド・カーノ(Fred Karno)劇団の1つでカーノと合流した。その後、彼は、1906年から1910年までカーノの『Mumming Birds』スケッチに鍵となる人物(key player)として登場した。この後、彼の経歴は不明瞭になり、彼は巡業サーカスの道化師として終わった[95]。数年後、ポールは、無一文になり、誰が友人や家族からのさまざまな施し物に頼った[96]。1948年4月9日に、ポール・レルフは、ホィッティントン病院(Whittington Hospital)胃癌のために58歳で死亡した[97]
- ^ フリオ・レシオは、1869年にマラガで生まれ、或るスペインの政府官吏の末娘であった。彼女はパリで育ち、ムーランルージュでパフォーマンスしてスペイン舞踊で成功した[98]
- ^ ローリー・レルフは、ベルリンの診療所で死去し、遺言で2900ポンドを遺したが、その大部分は彼女の息子に行った。彼女は家族と連絡を取っておらず、彼女の死因は不明である[99]
- ^ 1907年時点の£500は2019年時点の£54,077に相当する(インフレーション調整済み)[27]。
- ^ ロドルフ・クノッパーのおじハリー・アラスカ(Harry Alaska)は、しばらくの間、リトル・ティッチのいとこ兼着付師となり、2人はすばらしい友達になった。アラスカの義理の姉妹が急死し、クノッパーは、アラスカに面倒を見てもらうようになったが、アラスカが演劇のキャリアを始めかけていたので、彼はその少年の世話をすることができなかった。ジュリアが代わりにその少年を育てようと申し出て、彼はイングランドに移り、そこに思春期まで彼女と一緒にとどまった。クノッパーはのちに、イギリス陸軍に加わり、1918年4月に現役勤務中に死亡した[113]
- ^ ウィニフレッド・エマ・アイヴィー・ラティモア(Winifred Emma Ivy Latimer)は、1892年2月26日にサセックス、ホーヴ(Hove)で生まれた。彼女は、巡回販売員ジェームズ・アイヴィー(James Ivey)の末子でひとり娘で、そして彼の情婦ハリエット・ラティマー(Harriet Latimer)、彼女は、俳優で劇場経営者ハーリー・グランヴィル=バーカー(Harley Granville-Barker)と親戚であった[121]。
- ^ コンスタンス・ジュリア・デーヴィーズ(旧姓)レルフ(Constance Julia Davies née Relph)は1911年に生まれた。彼女はポールの娘であり、彼の最初の妻ジルダ・レルフ(旧姓)ニコラス(Gilda Relph née Nicholas)(1885年-1954年)はマンチェスター出身のミュージック・ホールダンサーであった。コンスタンスの誕生時に、ポールは、継母ジュリアと親しい関係であったが、関係は後年に悪化した。コンスタンスは自分の父親と疎遠になり、父親は、彼女が4歳であったときに、家を出た。ジルダは、母性よりも野心のほうを選び、コンスタンスの世話をジュリアに任せ、ジュリアが、事実上、代理の母親になった[95]
- ^ 週£300は2019年時点の£17,802に相当する(インフレーション調整済み)[27]。
- ^ リトル・ティッチの死去のすこし後、メアリーとウィニフレッドは同居し続けた。1940年代半ばまでに、彼らは、シャーホール・パークの住所にホテルを設立した。お金がなくなって、彼らは、1971年にその家屋を売り、それはユダヤ人の老人ホームに変えられた。それからメアリーは母親とともにブライトンに移り、母親は数年後の1973年12月17日にナーシング・ホーム(nursing home)で死去した[97]
脚注
- ^ a b c d e Russell, Dave."Relph, Harry (1867–1928)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, online edition, January 2011. Retrieved 1 August 2013 (
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出典
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外部リンク
- Little Tich (Harry Relph) at Who's Who of Victorian Cinema.(英語)
- リトル・ティッチ - IMDb(英語)
- Sax Rohmer and Little Tich:Chapter Sixteen, taken from Little Tich: A Book of Travels (And Wanderings).(英語)
- A collection of Harry Relph (Little Tich) volumes is held by the Victoria and Albert Museum Theatre and Performance Department.(英語)
- リトル・ティッチ - Find a Grave(英語)
- リトル・ティッチのページへのリンク