グレーヴセンドへの移動と初期のパフォーマンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:08 UTC 版)
「リトル・ティッチ」の記事における「グレーヴセンドへの移動と初期のパフォーマンス」の解説
リチャード・レルフは1875年にブラックスミスス・アームズと隣接する農場を売り、一家をグレーヴセンド(Gravesend)に移した。社交的に引きこもったリトル・ティッチは、もっと忙しい環境に順応することを強いられた。日帰り行楽客ら、休暇を楽しむ行楽客ら、釣り人らがしばしば市街を訪れ、港と隣接道路を飾っている多くのパブを占めた。彼は、こんどはクライスト・チャーチ・スクール(Christ Church School)で、教育を再び始め、そこで彼は次の3年間を過ごした。1878年に、校長は、彼がその学校にしてはあまりにも教育的に進歩したと見なし、リチャード・レルフは、そのかわりに若い息子のためにウォッチ時計製作の見習いの身分を確保してやるように助言された。レルフはその助言を無視した。 1878年までに、リトル・ティッチの両親は彼をそれ以上経済的に養うことができないでいて、彼は、グレーヴセンドの或る理髪店でラザー・ボーイ(lather boy)として常勤の雇用を求めた。ある晩、彼は、兄弟がタレント・コンテストに出場していた友人と一緒に、初めてミュージック・ホールを訪れ、すぐに「夢中」("hooked")になったが、これはパフォーマンスできると考えたからである。主として自分の地元の有名人の地位が「奇形の人」("freak")であったおかげで、彼は、多くのパブに喜んで迎えられ、そこではロンドンからの兵士、船員(sailors)、商船船員(merchant seamen)、日帰り行楽客のために料理を提供した。 1878年までに、リトル・ティッチは自分でティン・ホイッスルを買うのに十分なお金を貯めていたが、それを彼は用いて「その日の陽気でセンチメンタルなパントマイムの唄をすべて演奏して楽しんでいた」("amuse [him]self by playing all the jolly and sentimental pantomime songs of the day")。金を稼ぐために、彼は、外で行列を作って待っている地元の好劇家を相手に大道芸を始めた。大道芸からの帰り道で、彼は、エキセントリックなダンスを考案して、見物している近所の人々をおおいに楽しませた。1879年に12歳で、リトル・ティッチは、ハリー・レルフとして、ステージ・デビューを果たした。その現場はーー未確認ではあるがーー娘メアリーの記述によれば、「自由気ままな、裏通り」("back-street, free-and-easy")で、出し物は大部分はアマチュアと初心者で構成されていた。観客はしばしば辛辣で、ステージ上に物をほうり投げて不快感を表示したものであった。 ある晩、司会者が、アマチュア・タレントのリストを使い果たして、次の番はリトル・ティッチとティン・ホイッスルに続けるように求めた。公演は成功し、リトル・ティッチは毎夜、もどったが、そのときはしばしば、ティン・ホイッスルの曲に、おきまりの即興ダンスを合わせた。彼の公演のニュースの広がりにより、彼はすぐに隣りのロイヤル・エクスチェンジ・ミュージック・ホール(Royal Exchange music hall)の所有者によって署名契約され、所有者は彼の新しい署名契約に1足の木靴を買ってやった。リトル・ティッチは、ホールの人気のある呼び物となり、しばしば一夜で30曲を歌った。彼がブラックフェイス(blackface)の芸を発見したのはここにおいてであったが、これは当時ブリテン諸島で広くパフォーマンスされていた人気のある娯楽の型である。
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