出版後の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/14 17:19 UTC 版)
ストウがフロリダについて書いた効果は、当局によって正当に評価された。ストウの弟であるチャールズは彼女の推薦に従って自分の土地を購入したが、マンダリンではなく、州都タラハシーに近いニューポートの土地だった。ストウは1874年にチャールズの家を訪れているときに、他の北部投資家たちと共に、フロリダ州知事のマーセラス・スターンズに謁見した。彼らはフロリダ州会議事堂の階段でスターンズの閣僚やスタッフと会い、彼らはストウにひとしきり大声で熱狂的な喝采を送った。この日のために階段は緑樹で飾られ、大きな歓迎看板があった。 1882年、ストウはセントジョンズ川の岸、マンダリンで1区画の土地を購入し、マンダリン・チャーチ・オブ・アワー・セイバーを建てた。その落成式には彼女も出席した。教会の窓は寄付者達が装着した。カルビンの健康が衰え始め、1884年にストウ家はマンダリンを永遠に去り、残りの年数はハートフォードで過ごした。2年後にカルビンが死に、ストウは彼の記憶のためにマンダリンの教会に窓を増やすことを求めたが、30年間は平板ガラスのままだった。教会の教区民はストウに忠実なままであり、窓に代替案を提案することを怠っていた。ストウは1894年以後子供のような状態に衰えて行き、その記憶の多くを失ったが、ハートフォードで歩きながら植物や花に魅せられたことを覚えており、その来し方について思い出していた。ストウは1896年に死んだ。 1886年の降霜でマンダリンのオレンジ産業の多くが破壊され、町は経済的に不況になった。1916年、ルイス・カムフォート・ティファニーが制作した装飾的なステンドグラスがチャーチ・オブ・アワー・セイバーに装着された。その図柄は川を見下ろす大きなオークの木だった。この教会とマンダリン住人はこの窓のために500ドル足らずしか出さなかった。10年の間マンダリンで10セントの献金が集められ、その資金を懇願するためにニューヨークの雑誌に記事が掲載された。学者達は、地元の黒人を教育しようとしたストウの努力は最終的に失敗だったと述べているが、記念の窓のための資金集めの先頭に立っていた女性は、その計画が地元黒人の教会や住民に熱狂的に支持されたと言っている。彼らはストウが読み書きを教えてくれたことを覚えており、ストウに対する愛情からできるものを出したということである。その窓は恐らくティファニーでUS$850(2015年時点の$20,081と同等)掛かったが、ティファニーに幾ら支払われたかの記録は無いものの、ティファニーはそのデザインを好んだので工事を引き受けた。木、苔、南部のモチーフ、さらにそれがストウを記念するためだったからだった。おそらくティファニーはそれから利益を得ていない。 窓の下には「あの時間で、日光の夜明けよりも晴れて、栄光の考えに留まり、私は貴方と共にある」と書いてあり、ストウが書いた讃美歌の一部である。ストウが後援した学校は1929年に閉鎖された。ストウ家が去った後、ストウの家の次の所有者は、ストウの名前を付けたロッジに転換した。それは1940年代に閉鎖され、その後は広い家屋によって置き換えられた。残っているのは樹齢500年のオークの木であり、ストウはそれを除去する代わりに、その周りに家を建てた木だった。そのオークは成長を続け、新しい家屋の基礎を作っている。 ステンドグラスの窓は観光の呼び物となり、フロリダでのストウの最後の記念となった。その後の時代に教区民や牧師が、その窓が聖書の主題には言及されないのはイングランド国教会では稀なことであるので、「キリスト教らしさ」について疑いを呈した。1964年、ハリケーン・ドーラがチャーチ・オブ・アワー・セイバーを破壊し、このステンドグラス窓も壊された。その通り向かいにマンダリン・コミュニティクラブがあり、それはストウが出資した元の学校である。この建物は1936年にマンダリンに寄付された。アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。マンダリンはその後、拡大するジャクソンビル市の郊外部に成長した。 画家のクリストファー・スティルが『オクラワハ川のオキーハムキー』と題する麻布油彩画を製作し、フロリダ州下院議場に掛けられている。フロリダ州が1999年に発注し、2002年に完成した、フロリダの文化と歴史の重要さを象徴する一連の絵画の1つである。『ヤシの葉』は、沼を過ぎる川船の前に大きなアリゲーターと洞のある木の幹に並んで置かれている。
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