出版後の状況・本書の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 01:05 UTC 版)
「サラエボ旅行案内」の記事における「出版後の状況・本書の影響」の解説
本書の発表後も包囲は続いた。戦況はサラエヴォにとって厳しくなり、1995年の夏には演劇などのイベントは行われなくなっていた。NATOは同年8月に大規模な空爆をセルビア人勢力に対して行い、1995年11月のデイトン合意によって和平が成立してボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は集結した。 紛争の終結によって、サラエヴォ包囲も終了した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦、スルプスカ共和国、ブルチコ行政区の連合体となった。サラエヴォは分断され、東部がセルビア人、西部がボシュニャク人やクロアチア人の住む地区となり、行政やインフラストラクチャーも別個のものとなった。内戦後のボスニア・ヘルツェゴヴィナ経済は、トルコ資本やアラブ資本が増加し、特にガーズィー・ヒュスレヴ・ベイのモスク(英語版)などイスラーム建築の修復に使われた。包囲中に行われた演劇、コンサート、スポーツなどのイベントのフライヤーは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ歴史博物館(英語版)に展示された。 デイトン合意にもとづいた憲法ではボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の3民族が重視されており、この3民族以外は大統領評議会や議会民族院への非選挙権がない。民族主義に反対するデモが起きるが選挙では民族主義政党の当選者が多く、FAMA代表のカピッチは民族主義の政治家を批判的に見ている。 FAMAは本プロジェクトを進めた際、サラエヴォで起きた人災に限らず、世界のどこでも深刻な災害が起こりうると考えていた。カピッチは1994年のインタビューで次のように語っている。 日本でも、フランスでも、アメリカでもそれぞれの国の状況で、どういう形で文明が崩壊して、どういうものが残るかというのは違ってくるわけですから。それぞれの状況に応じた準備を、ある種のカタストロフィを想定しつつ、生き残っていくためには一体何が必要なのかというのを今から研究しリサーチし、テクノロジーをもっと開発していくことをお勧めします。 その後のFAMAの活動として、サラエヴォの各所で起きた戦いを記録した『サラエヴォ・サバイバル・マップ』、包囲を体験した人々への22の質問を集めた『LIFE』という雑誌、FAMAの活動を集めた大部の書籍『The Siege of Sarajevo』、紛争の責任問題を問うテレビシリーズなどがある。FAMAのプロジェクトは1994年にニューヨークでも発表されたが、当時マスメディアでは紹介されなかった。その後、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起き、2005年にニューヨーク市は「サバイバルガイド」を発表した。2017年にFAMAはサラエヴォ市が授与する最高の賞であるサラエヴォ4月6日賞(英語版)を受賞した。 作家の角田光代は、本書をきっかけとして2012年にサラエヴォを訪れ、カピッチと対面した。サラエヴォの人々と話し、普通に暮らすことや楽しみを見つけること、ひどい状況下でもジョークを言うことで戦争に抵抗していたと知る。子供時代を包囲の中ですごし、サラエヴォについての著作があるヤスミンコ・ハリロビッチ(Jasminko Halilovic)にも角田は対面した。ハリロビッチは、包囲時期に子供だった人々に「あなたにとって戦争とは何だった?」という問いかけをEメールで募集して書籍化しており、角田はその日本語版『ぼくたちは戦場で育った』の翻訳者となった。
※この「出版後の状況・本書の影響」の解説は、「サラエボ旅行案内」の解説の一部です。
「出版後の状況・本書の影響」を含む「サラエボ旅行案内」の記事については、「サラエボ旅行案内」の概要を参照ください。
- 出版後の状況・本書の影響のページへのリンク