公定教会の廃止とヴァージニア信教自由法の制定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「公定教会の廃止とヴァージニア信教自由法の制定」の解説
「ヴァージニア信教自由法」も参照 啓蒙主義や共和主義の立場は、信教の自由や良心の自由を個人の権利のなかでも核心的なものと位置づけていたが、信教の自由にとって最大の問題とみなされたのは、特定の教派が国家の保護を受ける公定教会として特権を有し、それ以外の教派を弾圧することであった。北米の独立13邦においては、その成り立ちからして信教の自由を植民地建設の目的にしたロードアイランド邦やペンシルヴェニア邦以外にも、ニュージャージー邦やデラウェア邦には公定教会がなかった。 独立前のヴァージニアではイングランド国教会が公定教会として認められ、独立後は本国から分離して改称・再編成され、「プロテスタント監督派教会」として特権的地位が与えられていた。この制度は、トマス・ジェファーソンやジェームズ・マディソンら合理主義を奉じる理神論者や「不服従派」と称された非国教徒たち(長老派、バプテスト、メノナイトなど)によって廃止が求められていた。ジェファーソンはアメリカ独立宣言の起草後早々とヴァージニアに帰郷し、1779年から1781年まではヴァージニア邦知事を務めた。1779年、自身が起草したヴァージニア信教自由法を邦議会に上程した知事時代のジェファーソンはヴァージニア大学を設立し、この大学は合衆国では宗教的原理からは完全に分離された初の大学となった。 独立戦争はベンジャミン・フランクリンの外交活動などにより、イギリスと長年争ってきたフランスをはじめヨーロッパ諸国がアメリカ独立支持にまわった。1781年、イギリス軍がヨークタウンの戦いで致命的な敗北を喫したことから事実上の戦闘状態は終結し、1783年9月にはパリ条約が結ばれてイギリスは「アメリカ合衆国」の独立を承認し、ミシシッピ川以東の地を譲渡した。 ジェファーソンはマディソンの協力を得て「信教自由法」の実現を目指した。1784年にヴァージニアで成立した宗教結社法人法は、プロテスタント監督派教会が国教会の不動産と教区制の継承を認める権限をめぐっての立法であったが、この法律に対してヴァージニア人の反対の声が高まるのを待って撤廃の動きを開始したマディソンは、「請願と抗議」と題する請願書において信仰の自由は「理性と信心」によってしか導かれることのできない個人の内面の問題であり、政治的に強制してはならないと主張した。この請願の署名者は1万人以上に広がり、長老派、バプテスト派、クエーカー、少数のカトリックに加え、メソディストや監督派の一部も含まれていた。1785年に宗教結社法人法は撤廃され、1786年1月19日にはジェファーソン起草の信教自由法がヴァージニア邦議会において可決され、成立した。これは、ジェファーソンが駐仏公使としてパリに赴き、アメリカを離れていた時期のことであった。 信教自由法では、「何人も宗教儀礼に献金したり、足しげく教会に通ったりすることを強制されない」と定め、また、「すべての人は、いかなる形であれ、どの人の市民的権利に影響を当てることなく、宗教問題について信念を表明し、議論する自由を有する」と明記しているこれは、キリスト教を中心にすえた従来の寛容論をさらに一歩進め、公定教会そのものの廃止を含んでいた。公定教会が存在する限り、少数派の信教の自由は保障されないというのが、ジェファーソンやマディソンの主張であった。さらに、「信教の自由」の際に特定の教会・教派の特権的地位を認めないのが従来の捉え方であったが、ここでは「宗教の信仰は万人が保有する平等の権利であり、万人は良心の命ずるままにそれを信ずる自由を有する」と規定し、個人の自由な宗教実践のためにこそ必要であるという積極的な意味合いが付加された。「分離の壁」の言葉はジェファーソンがロジャー・ウィリアムズから影響を受けたもので、こうした積極性は、自身『クルアーン』の英語訳を所有するなどキリスト教以外の宗教にも関心を寄せ、この法の制定にあたって敬虔主義的な宗教指導者たちともよく話し合ったこととも深いかかわりがある。 公定教会を置かない動きは州(邦)憲法の制定過程においてさらに進展し、ジョン・ジェイらが主導権を発揮したニューヨーク州憲法(英語版)の場合にはイングランド国教会やオランダ改革派が公定教会の地位を剥奪され、ノースカロライナ州やサウスカロライナ州(1790年)もそれに続いたが、ニューヨークにあってはカトリック教徒やユダヤ教徒に対しても平等な選挙権が保証されたことが注目される。
※この「公定教会の廃止とヴァージニア信教自由法の制定」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「公定教会の廃止とヴァージニア信教自由法の制定」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。
- 公定教会の廃止とヴァージニア信教自由法の制定のページへのリンク