優越願望と対等願望
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:36 UTC 版)
カール・マルクスは、歴史の発展の原動力は経済的な階級対立にあると主張したが、フランシス・フクヤマはむしろ精神的な優越願望(megalothymia:メガロサミア。直訳すると誇大気概)・対等願望(isothymia:アイソサミア。直訳すると平等気概)の対立によって生じると主張する(これはそのままニーチェ哲学の貴族道徳・奴隷道徳に類比できる)。 優越願望とは、他人よりも上に立ちたいという野心であり、向上心であり、勝利への執着心である。また、カリスマ的な人物に心酔し、自己投影し、その人物に忠誠を誓うような武士道的忠義心も優越願望の形態のひとつである。対等願望とは、差別はいけない、傲慢になってはいけないというような、キリスト教的な博愛主義、平等主義である。上下関係や身分制度などの秩序や差別はあって当然だと主張する優越願望の強い貴族と、貴族も同じ人間に過ぎないと主張する対等願望の強い奴隷との対立が、歴史の本質的な流れなのである。 世界史上に存在したイデオロギーや正義のほとんどは、その当時、その地域の支配階級の優越願望の表現形態である。帝国や王国内での正義とは、その皇帝や国王に敬意を示し、忠誠を誓うことであり、抵抗することは反逆であり、不敬であり、利己的で、悪とされた。宗教原理主義とはその宗教の優越願望、ナチズムとはドイツ民族の優越願望、天皇主義とは日本民族の優越願望の表現形態である。政治体制領域における優越願望(貴族道徳)の最後にして最高の発現形態が、大衆を愚衆と考えた、ソ連のエリートによる前衛主義的一党独裁体制である。 奴隷は暴動や反乱だけでなく、道徳を利用して貴族に報復する。貴族に対して、「傲慢さを悔い改めるべきだ」「神の前では人間は平等だ」「強いものは弱いものをいたわらなくてはならない」と説教し、改心を迫るのである。それを、ニーチェは「道徳は弱者の復讐である」と指摘している。 奴隷が攻撃手段として道徳を利用する態度は、核武装したソビエト連邦が崩壊した要因を考える上で重要である。もし奴隷が暴動や反乱を起こすだけだったら、ソ連共産党は反乱軍に見せしめとして核を打ち込めば、一瞬にして反乱軍を壊滅できたはずである。それをしなかったのは、ソ連共産党が奴隷の説教を受け容れて「改悛」したからに他ならない。現実主義派の国際政治学者たちがソビエト連邦の崩壊に動揺した要因は、「最強の軍事力を持った暴君の改悛」という予想外の事態が実際に起こったからである。当時の現実主義派の国際政治学者は、「敵の改悛に期待するとは、お人好しの最たるものであり、現実はそんな甘いものではない」という認識を持っていた。 フクヤマは、長い歴史の闘争の結果、ユダヤ的対等願望(奴隷道徳)はゲルマン的優越願望(貴族道徳)に勝利したと述べている。奴隷道徳が勝利した理由は単純であり、貴族よりも奴隷のほうが数が多いからである。奴隷が必要な技術と知恵を身につければ、どんな貴族も数の力で支配者の地位から引きずり落すことが可能なのである。すべての奴隷が解放され、貴族と奴隷の身分制度が消滅し、出身や人種、性別、宗教などによる差別がなくなれば(それは法制度的には男女普通選挙制など、各種の政治的権利の平等によって達成される)、もはや歴史を発展させる要素はなくなる。 しかし、必ずしも経済的な平等や、生産手段の共有化を達成する必要はない。人間が憤りを感じる不合理は、あくまで機会の平等、ルールの平等が破られた場合であり、公平な自由競争の結果としての不平等(スポーツの勝敗や成績、学歴、収入、企業でのポストの差など)は納得して受け入れる。ルールが公平なら、社会に競争が存在することは人間の優越願望を健全に消化する上で重要なことであると、フクヤマは指摘している。機会の平等だけでなく、結果の平等まで認めてしまえば、努力する者も怠ける者も報酬は同じになってしまい、健全な競争意識を減退させ、共産主義体制のような悪平等に陥ってしまう。 政治的権利、機会、ルールの平等が達成されたら、もはや不合理は存在せず、大規模で組織的な内乱も反乱も起きなくなり(奴隷が反乱を起こす理由がなくなる)、安定した統治が確立されるので、歴史は終わる。 ここで言う貴族とは、マルクス主義的な唯物史観でいうような、土地や生産手段を私的所有している者を指すのではない。単純に精神のあり様であり、降伏するぐらいなら死を選ぶという気概を持った人間を貴族と呼び、殺されるぐらいなら降伏すると考える者を奴隷と呼ぶ。貴族が土地や財産を所有しているのは、あくまで死を恐れずに戦った結果であり、その戦利品である。貴族にとって広大な土地や財産は自分の物理的・生理的な欲求だけを満たすものではなく、自分の勇敢さを示す勲章であり、ステイタスであり、アクセサリーである。だから貴族は、一生かかっても費やせないほどの財産を持っていても、なお貪欲にその領土や資産を拡大しようとする。睡眠欲、食欲、性欲などの生理的欲望には限界があるが、名誉欲には限界がなく、貴族は最終的には自己神聖化を行い、世界征服をも夢想するようになる。
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