科野国造
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科野国造(しなぬのくにのみやつこ、しなぬこくぞう、しなののくにのみやつこ、しなのこくぞう)は、のちに信濃国となる地域(科野国)の全域を支配した国造である。
出典
- ^ 『新訂増補國史大系 第7巻』。
- ^ a b c 河内春人「古代東アジアにおける政治的流動性と人流」『専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報』第3巻、専修大学社会知性開発研究センター、2017年3月、103-121頁、CRID 1390572174779544704、doi:10.34360/00008258。
- ^ 田中卓『田中卓著作集 2日本国家の成立と諸氏族』(国書刊行会、2012年)
- ^ 伊藤麟太朗「所謂『阿蘇氏系図』について」『信濃』第46巻第8号、信濃史学会、1994年、696-697頁。
- ^ 村崎真智子「異本阿蘇氏系図試論」(『ヒト・モノ・コトバの人類学 国分直一博士米寿記念論文集』1996年)202 - 218頁。
- ^ 福島正樹 (2003年11月24日). “信濃古代の通史叙述をめぐって”. 2022年4月15日閲覧。
- ^ 佐藤雄一『古代信濃の氏族と信仰』(吉川弘文館、2021年)
- ^ a b c d e f g h 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考 : 再構成される諏訪の伝承」『国語国文研究』第161号、北海道大学国語国文学会、2023年8月、1-16頁、CRID 1520579134373407616、ISSN 02890488、国立国会図書館書誌ID:033071475。
- ^ a b c 井上今朝男、牛山佳幸編『論集 東国信濃の古代中世史』(岩田書院、2008年)
- ^ a b 『日本歴史地図 原始・古代編 下』。
- ^ a b 『日本歴史地名大系第二十巻 長野県の地名』。
- ^ 藤森栄一『信濃考古学散歩』学生社、1968年
- ^ 『日本書紀』巻19欽明天皇14年(553)正月乙亥12
- ^ 『日本書紀』巻19欽明天皇14年(553)8月丁西7
- ^ 福島正樹「信濃国のなり立ち」 (古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社、2003年) 43ページ
- ^ 「第三節 諏訪の金刺氏 第七章 諏訪神社の古態」『諏訪市史』上巻、1995年、704頁。
- ^ 国造田精選版 日本国語大辞典
- ^ 「天皇氏族」(2018年)宝賀寿男
- ^ “科野国造 ( 信濃 )”. 日本辞典. 2018年7月6日閲覧。
- ^ 「第三節 大和王権と科野のクニ」『長野県史 通史編 第一巻 原始・古代』1989年、312頁。
- ^ a b c 佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(2021年、吉川弘文館)
注釈
- ^ 『諏訪大明神画詞』の原文では用明天皇期の「有員」
- ^ 信濃国諏訪地方に伝わっていた平城天皇期の本来の「有員」、『諏訪大明神画詞』の原文では「神氏」
- ^ 大祝本「神氏系図」「神子八歲之時、尊神化現、脱着御衣於神子、吾無体以汝為体。有神勅、 隠御身矣。是則御衣着祝神氏有員之始祖也。用明天皇御宇二年、神子構社壇于湖南山麓。」
- ^ 『先代旧事本紀大成経』国造本紀「科野國造。高穴穗宮成務朝御世,茨城國造祖建許意命兒宮富鷲意命任,定賜國造。」
- ^ 『先代旧事本紀大成経』国造本紀「科野國造。高穴穗宮成務朝御世,茨城國造祖建許意命兒宮富鷲意命任,定賜國造。」
- ^ ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する[2]。
[続きの解説]
科野国造と同じ種類の言葉
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