信仰儀礼とその性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:02 UTC 版)
民衆信仰の性格をもっともよく表出するのはその信仰に基づいて営まれる各種儀礼であるので、加波山信仰による主だった儀礼を通覧しつつその内容を窺ってみる。 大当講行事 山麓の村落を構成する坪や組といった、社会結合の小単位を基に組織・運営される大当講(だいどうこう)の儀礼で、祭祀形態は坪や組の中から毎年交替で当屋を選ぶ当屋制、行事の日取りや期間は部落により異なるが概ね旧正月を中心に行われ、中には1週間や10日間といった長期に亘る所もある。講を開くに際して当屋は山頂へ登拝して神社から神札乃至は幣束を授かり、これを「御神(ごしん)」と称して奉斎する。親宮を信仰する桜川市本木の例では、親宮から御神として迎えた幣束を「権現様」という高さ60センチ程の木製の祠に納め、周囲に注連縄を廻らして神棚へ上げるという。講員は当屋家に集まり「ナベカケズ」と称して飲食し(「ナベカケズ」は「鍋掛けず」で、飲食一切を当屋が賄うために講中では鍋を火に掛ける必要がないという意味)、講を閉じるに際しては当屋の引き継ぎが行われ(当屋渡し)、講員によって御神が次期当屋の家まで送られる(当屋送り)。 この儀礼は年頭に加波山から作神(さくがみ。殖産を司る農耕神)としての山の神を迎えて当年の豊作を祈念する予祝儀礼と見られ、加波山信仰における作神・殖産神信仰を最も著しく表出させるものとして注目され、また当屋に集まる講員はその前に入浴等で身を潔めるものとされていたりするが、そこからこの儀礼が厳重な物忌みを伴うものであったろう事、「ナベカケズ」は即ち儀礼後の直会としての共同飲食であったろう事も想像される。なお、当初は純然たる山の神・作神信仰による行事であった筈であるが、修験道の影響を蒙っている点も指摘でき、例えば当屋送りに際して講員が「六根清浄」と奉唱したりする部落もある。 筑波山山麓一帯に掛けては同じく大当講と称する講が広く分布し、信仰対象を筑波山或いは足尾山として登拝したり、或いはどの山とも繋がりを持たずに行事を営む所もあり、坪や組という生活の基盤となる地域単位で組織されているために各種儀礼がその坪・組の性格を表すものともなっている事、当屋制を採る事、行事は旧正月を中心に行われる事、「ナベカケズ」が行われる事、性器を奉斎する事、等の共通性を持ち、いずれも共同体として作神・殖産神を信仰する性格が濃厚である点が指摘できる。なおこの場合、「ナベカケズ」等の当屋の行事が強く印象づけられて「大当講」という名称が生まれたのではないかとの説もある。 総登り これも大当講を単位とする儀礼で、講員が山頂に登拝する。複数回行う講が多く、その場合は大当講行事に併せて登拝した後に、旧暦の3月から4月にかけて再度乃至は再再度行われ、かつては代表を選びその者を中心に講員各戸から必ず1名が参加するものとされていたが、後に講の代表者のみが登拝する風に変化した。中宮を信仰する石岡市大塚では、ある期間を設定して期間内には各戸輪番で人を出し、2名づつが「加波山日参」と書かれた菅笠を被って山頂の神社へ日参し、神社で連判帳に判を押して貰う部落が多い。またその場合に山頂で神札を授かり、その神札を嵐除けの札として部落内の辻や部落の境界に立てたり各戸の軒先に吊したりした後に、田植えに際して小正月に使った白膠木の箸に挟み田の水口に立てる。そこに表されるのは大当講行事同様の作神信仰であるが、嵐等の自然災害を防ぐ除災神的な信仰も表れており、また大塚の例では当年の農耕開始前に長期に亘る物忌みがあり、その一環として日参が課せられていた名残と見る事もできそうである。 祈雨止雨祈願 農耕期間中における雨乞いもしくは天気祭りで、総じて雨乞いの場合が多いが、これも作神・除災神的な信仰儀礼である。 禅定講 山麓直下の部落を越えた広範な地域に禅定講(ぜんじょうこう)が組織され、講員は旧7月から8月の1箇月間、加波山山中に散在する「禅定場(ぜんじょうば)」と定められた巨巌、奇巌、岩窟の各所を巡拝する。禅定(ぜんじょう)は仏教用語の「禅定」に由来し、修験道においては修験者が山中の岩窟に籠もる修行形態を意味し、更に広く山中を抖擻する修行形態をも指すが、加波山においては専ら一般民衆による禅定場の巡拝や山頂を目指す登拝を指している。もっともその場合でも「山先達」と呼ばれる神社からの免許を受けた修験者による指導案内はなされており、これは後述する修験の霊場が一般民衆に開放された結果、修験者に倣って一般民衆が行うようになった修行の一環であると見なされ、その意味で加波山の修験霊場的性格を表すものと指摘できる。なお各所の禅定講も多様な形態と性格とを有すが、概ね加波山禅定を志願する者が集まり、3年、5年と年限を区切って講員全員が禅定を果たす事を目差したものとなっており、起源として結成には山先達の布教に依る所が大であったろう事、加波山権現(3神社)側も経済的基盤を求めてこれを積極的に支持していたであろう事、が共通点として指摘できる。 加波山神輿渡御 旧正月から本宮、中宮、親宮3社それぞれの例大祭(いずれも4月8日)までの期間、3社それぞれが加波山権現の分霊を遷した神輿を出し、それが周辺部落を巡幸する。その範囲は概ね本宮が山麓周辺西・南部、中宮が同東部、親宮が同北部で、その目的は嵐除け、疫病除けとされている。また、巡幸先の部落では若衆を中心とする信者中の有志者によって神輿が巡送され、そこに「春祈祷」と称して神官又は山先達が随行し、特に後者は巡幸先の部落で加持祈祷をして村中安全の辻札や家内安全の神札を配布し、或いは求めに応じて治病等の祈祷を行う。因みに山先達にとって神輿渡御は「行」の一環として位置づけられ、特に山先達として認められた者が初めて行う加持祈祷はこの春祈祷とされている。 その他 この他に秋の山の神祭という儀礼がある。大当講を組織する部落に見られる儀礼で、11月19日に坪・組毎に神木とする松の木の下でドンド焼きを行い、その火で鰯や目刺を焼いて食し、また残り灰は田畑に撒くが、それにより翌年の豊作が約束されるという。現今では加波山信仰と直接的な連絡を持つものではないが、当年の収穫を謝すとともに来る豊年を祈願する作神・山の神に対する信仰儀礼である事から、春の大当講行事や総登りが大々的であるために人々の意識が春に強く向けられた結果簡素化されたもので、本来は春の山の神祭りである諸行事に対応するものであったろうとの指摘がなされている。 以上、各種儀礼を通じて表された信仰内容を見ると、加波山乃至はその神霊を山の神・作神と見る信仰、除災神と見る信仰、加波山を修験の霊場と見る信仰の3種に大別できる。また、山麓部落では除災神的性格も見られるものの作神・殖産神的性格が顕著であるのに対し、山麓から隔たった部落では除災神的性格が濃厚となり、儀礼自体も前者は大当講や総登りを主とし、後者は禅定講と神輿渡御とに重きを置く等対照的で、次に見る信仰圏の点からも注目される。
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