低迷から復活へ
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1969年までは名実共に高い人気を保持していたものの1970年に入ると、かねてより多数出演していた歌謡映画が廃れ、TVドラマへの需要が無くなり、それに追い討ちを掛けるが如く歌謡界の変化に伴い表立った仕事は激減し舞台と地方公演が主な活動の場となってゆく。それゆえに1970年、1971年、1972年に自殺を図るが未遂に終わったり、1973年には心身の不調のため翌年まで10ヶ月間静養することとなる。また、私生活でも可愛がっていた年の離れた弟が、死亡するという不幸にもあっている。 その後十数年に渡り不遇時代が続いたが、デビュー30周年プレ公演を機に、主に中高年女性のアイドルとして人気再燃、そのなかで「同じ青春を過ごした仲間にしか通用しない歌い手でいい」と述べている。1997年には念願でもあった新橋演舞場での初座長公演を行う。そして1999年には中日ドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ!'99」を歌い(舟木自身も大のドラゴンズファンである)、25年ぶりにオリコン40位ランクインを記録。 2007年にはデビュー45周年を迎え記念コンサートを行う。そして「単なる流行歌でない。何も変える必要はない。これでいい」と述べている。 2016年、第1回あらえびす文化賞・特別賞を受賞。 現在も、歌手としてテレビやコンサートで精力的に活躍しているほか、舞台俳優としても毎年座長公演をこなし、幅広い層から根強いファンを集めていることで知られている。
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低迷から復活へ
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「ジャンカルロ・フィジケラ」の記事における「低迷から復活へ」の解説
1998年にベネトンに移籍し、チームメイトはアレクサンダー・ヴルツであった。チームはこの年からルノーエンジンを失い、1997年型のルノーエンジンを改良したメカクロームエンジン(プレイライフのバッジネームを使用)で戦うこととなったが、第6戦モナコGP、第7戦カナダGPで2位に入り、連続表彰台を獲得した。さらに第10戦オーストリアGPで初ポールポジションを獲得するなど、合計16ポイントを獲得し、ランキング9位でシーズンを終えた。 1999年は、第6戦カナダGPで2位表彰台を獲得するなど4度入賞し13ポイントを獲得、ランキング9位となった。第14戦ヨーロッパGPでは一時トップを走行するがスピンを喫してリタイアし、初優勝のチャンスを逃した。 2000年、前半戦で3度の表彰台を獲得するが、後半戦はB200のパフォーマンスが低下し1度も入賞出来なかった。結局この年は合計18ポイントを獲得し、ランキング6位となった。 2001年、チームメイトはヴルツに代わってジェンソン・バトンとなった。前年にルノーがベネトンを買収(ルノーのチーム名となるのは2002年から)したことで、B201はルノーのワークスエンジンを搭載して戦うことになった。しかし非常に斬新な111°広角バンク角を持つ新開発のルノーエンジンが深刻なパワー不足、信頼性不足を露呈したため、前半戦はミナルディやプロスト・グランプリなどどともに後方での順位争いを強いられた。しかしチームのテクニカルディレクターであるマイク・ガスコインによりマシンが改良された結果、後半戦ではベルギーGPで3位表彰台を獲得した。しかしこの年は3度の入賞で8ポイントを獲得、ランキング11位と当初期待されたほどの成績を残せなかった。ブリアトーレとの契約を解除したことで、この年一杯でベネトンのシートを失った。 2002年には古巣ジョーダンに復帰し(F1デビューした佐藤琢磨の最初のチームメイト)、4度の入賞で7ポイントを獲得した。 2003年、チームはメインスポンサーやホンダエンジンを失い、財政難とマシンの戦闘力不足に喘いでいたが健闘を見せ、第3戦ブラジルGPにて念願の初優勝を達成した。F1デビューから8年目、出走110戦目という遅咲きの勝利だった。このレースは豪雨によるクラッシュ発生により赤旗でレース終了し、またフィジケラが、それまでトップを走行していたマクラーレンのキミ・ライコネンをかわしたタイミングが微妙であったなどあまりに混乱した展開であった為に、オフィシャルが周回数の判断を誤り一旦は2位と判定された。しかしレース後の裁定によりフィジケラの優勝が確定し、次戦のサンマリノGPでライコネンからトロフィーが手渡されることとなった。 2004年にはニック・ハイドフェルドとのトレードでザウバーに移籍。カナダグランプリで4位入賞を果たすなどいぶし銀の走りでポイントを重ねた。22ポイントを獲得し、チームメイトのフェリペ・マッサが獲得した12ポイントを大きく上回った。これらのことが評価され、再びトップチームのルノーのシートを獲得することになった(ルノーチームの前身はベネトンであり、復帰という見方もできる)。
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