低迷からの脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 20:39 UTC 版)
医師の警告の通り、視力低下はビンのキャリアに致命的な傷を与えるかに思われた。しかし、ビンは努力の人だった。彼は右目の視力低下後、フリースローの猛練習に励んだ。この特訓が実り、ビンのフリースロー成功率はビンが右目に怪我を負った翌年の1972-73シーズンから3シーズン連続で80%以上を記録する。またビンは自分の得点力が失われた場合に備え、ディフェンダーとしての向上も目指した。1972-73シーズンを迎えるとき、チームはビンに選手兼コーチとなるよう要請したが、ビンは辞退。アール・ロイドが臨時コーチに就き、開幕後8試合目から元ピストンズのレイ・スコットが正式コーチに就任した。オフシーズンの特訓の成果で完全復活したビンは全82試合に出場し、平均22.4得点、アシストはキャリアハイの7.8アシスト(リーグ3位)を記録。フィールドゴール成功率も44.8%まで回復し、フリースロー成功率は初の80%越えとなる81.4%だった。ビンの復活に、レイ・スコットのコーチ就任、そしてリーグ有数のセンターに成長を遂げたボブ・レイニアと好条件が揃ったピストンズは、前年の大不振から抜け出す40勝42敗を記録。プレーオフにはあと一歩届かなかったが、低迷脱出に向けて明るい兆しが見られたシーズンとなった。 そして1973-74シーズン、ピストンズはチーム史上初の勝率6割以上、50勝以上達成となる52勝30敗を記録。プロ7年目、30歳となるビンはキャリアで初めて平均20得点を下回ったが、平均18.8得点6.9アシストの成績でチームの司令塔を務め上げ、オールNBA2ndチームに選出された。6シーズンぶりの出場となるプレーオフでは、シカゴ・ブルズと対戦。シリーズは第7戦までもつれた末に、94-96でピストンズは惜敗した。翌1974-75シーズンは40勝42敗と負け越すも、プレーオフには出場。シアトル・スーパーソニックスの前に1勝2敗で敗退した。このシーズンのビンの成績は平均19.0得点7.7アシストだった。 ビンは素晴らしい司令塔だったが、ピストンズは31歳のビンに代わるより若いプレーメーカーを探し始めていた。そしてビンも自分のキャリアを故郷で終えたい思いが強まっていた。ピストンズはビンの願いを叶えるべく、ワシントンD.C.のチーム、ワシントン・ブレッツとトレードを行い、ケヴィン・ポーターとの交換でビンを彼の故郷へと送り出した。こうしてビンのデトロイトでの9年間は幕を閉じた。
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