代表作品・年代とは? わかりやすく解説

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代表作品・年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 22:14 UTC 版)

池田不二男」の記事における「代表作品・年代」の解説

幌馬車の唄1932年昭和7年)パーロホン発売の「幌馬車の唄」(作詞山田としを、作曲編曲原野為二)を歌った和田春子渡辺光子)とは東京高等音楽学院同級であった作詞山田としをとは、西條八十門下寺下辰夫のペンネームである。1936年昭和11年)にもミス・コロムビア桜井健二の歌でコロムビアから同曲が発売されているが、こちらは当時世界的に名の知れたフランスのアレクサンダーダンス管弦楽団譜面送りフランスでレコーディング手風琴:モーリス・アレクサンダー)してもらったものに、日本で歌をかぶせたもので、カラオケレコーディングする世界初のものであったという。「幌馬車の唄」は、日本統治時代の台湾にも伝わり1930年代流行した侯孝賢監督台湾映画悲情城市」(1989年ベネチア映画祭グランプリ受賞映画)の中で、死に赴く際し歌った別れの歌として、獄中での合唱シーンがある。 「片瀬波」 作曲家として池田の名が最も知られることになったのは、パーロホン時代高橋掬太郎依頼した片瀬波」(作詞高橋掬太郎作曲編曲池上敏夫)1933年昭和8年4月)であり、当時コロムビアから「酒は涙か溜め息か」1931年昭和6年)(作曲古賀政男、歌:藤山一郎)の大ヒット曲で作詞家デビュー果たした高橋才能惚れ込み一緒に仕事をしたいと、高橋の上京を熱心に勧める手紙を度々送っている。当時の手紙の中で池田は「『片瀬波』はちょいと良きものだと思ふだけれど会社では大したとがない思ふのか、B面につけてしまった。」とこぼしていたが、結果A面の「美はしの春」よりも「片瀬波」のほうが有名になった。高橋掬太郎は後に「彼の手紙は、その書体にもその文体にも、独特の趣きがあって、私はその一信毎に、どんなに魅力感じた知れない。ふたりは仕事上の仲間であったが、ふたりの友情は、つねに仕事超越し、しかも仕事の上において一層しっかりと結ばれていた。」と記している。 「並木」「に咲く花」 1933年昭和8年)夏、パーロホンが吸収されコロムビア移った池田は、すぐにいくつかの作品発表したが、どれもあまり評判にならなかった。当時のことを、「迎へられた条件悪くないけれど、まだ何んとなく周囲空気親しめいでいる。」と池田高橋の手紙に記している。1933年昭和8年10月高橋上京。すると、1934年昭和9年)の「並木」(作詞高橋掬太郎作曲編曲原野為二、歌:ミス・コロムビア)や、1935年昭和10年)の「に咲く花」(作詞高橋掬太郎作曲編曲池田不二男、歌:関種子)(新興映画突破無電主題歌)などのヒット曲次々と生まれた高橋掬太郎当時の事をこう記している。「私の胸底最もなつかしく浮かぶのは池田不二男面影…私の作詞を特に好んで作曲してくれた。実に抒情的ないい曲を作った男…彼のために詩を作ることを無上歓びとし…」「彼はその頃自由ヶ丘住んでいた。私は殆ど日曜毎にその家を訪ね詩想語り、また彼の新作の曲を聴かせて貰ふのを愉しみにした。私はその頃蒲田志茂田町アパート住ひをしていたが、その狭い一室へ彼も時々訪ねて来てくれた。」 しかしこの後日中戦争へ様相を是して行く中、次第人気得ていた「に咲く花」は内務省検閲係から時局そぐわないとされ、発売禁止となる。それを受け、1937年昭和12年支那事変中に、同じ高橋菊太郎により歌詞ホームソング調に書き換えた「日暮の窓で」(歌:淡谷のり子)が翌年再発売されている。歌手東海林太郎は、この曲のメロディー原曲は、ウォッカの箱に印刷されていたロシア民謡であると話している。1960年昭和35年)、「に咲く花」は井上ひろしの歌で再びヒットし、「並木とともにリバイバルブームのはしりとなった1990年平成2年)のアメリカ映画20世紀FOXアラン・パーカー監督愛と哀しみの旅路 (COME SEE THE PARADISE)」では、この「に咲く花」と、1933年昭和8年)の「恋の」(作詞久米正雄作曲編曲原野為二、歌:荘司史郎=東海林太郎)が挿入歌となっている。 「あなたのあたし」 「あなたのあたし」(作詞山崎謙太郎、作曲原野為二、編曲仁木他喜雄、歌:杉狂児市川春代松平晃)は、1934年昭和9年)の日活映画花嫁日記」の主題歌としてヒットした池田当時流行していたドイツ映画会議は踊る」の主題歌楽譜からヒント得て、この曲を作ったと言われる。「『ちょっと、ちょっと』と彼は私を窓ぎわ引っぱって行った。そしてこの楽譜を裏向けにして、ピッタリ窓ガラスくっつけて、『ほら、これをよんでご覧なさい。”あの日から あの日から あなたのあたしよ”と歌えでしょう。』と自分作った曲を歌った。まさか音符その通りになるわけではないが~自分言ってにやにやと笑うところがなんとも好感持てた。」と、コロムビア作詞家 藤浦洸振り返っている。この曲は当時フランスでもリュシエンヌ・ボアイエが仏訳して、一流オーケストラによる録音をしている。 「花言葉の唄」 1936年昭和11年新興キネマ初恋日記」の挿入歌花言葉の唄」(作詞西條八十作曲池田不二男編曲仁木他喜雄、歌:松平晃伏見信子)は、当時コロムビアに再入社した西條八十歌詞を手がけており、映画撮影中に急遽1曲必要になったと池田から頼まれ大急ぎ作詞したものだという。「咲いたらあげましょあの人に」のフレーズは、ちょっとした流行語なる程ヒットした編曲仁木他喜雄は、池田作品含め多く楽曲編曲担当しており、池田仁木と最も気が合い仁木深く信頼していたという。また、6歳年下で「花言葉の唄」を歌ったコロムビア花形歌手松平晃とは旧制佐賀中学同窓であり、親友であり、作曲家歌手間柄であった松平晃は特にこの曲を好み1961年昭和36年)の松平葬儀では、参列者がこの歌を斉唱見送っている。池田は、同窓の友であったためか、歌手の中では松平晃を一番愛していたという。これが池田最後ヒット曲となった

※この「代表作品・年代」の解説は、「池田不二男」の解説の一部です。
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