代表作品・年代
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「幌馬車の唄」 1932年(昭和7年)パーロホン発売の「幌馬車の唄」(作詞:山田としを、作曲・編曲:原野為二)を歌った和田春子(渡辺光子)とは東京高等音楽学院の同級であった。作詞の山田としをとは、西條八十門下の寺下辰夫のペンネームである。1936年(昭和11年)にもミス・コロムビアと桜井健二の歌でコロムビアから同曲が発売されているが、こちらは当時世界的に名の知れたフランスのアレクサンダーダンス管弦楽団へ譜面を送り、フランスでレコーディング(手風琴:モーリス・アレクサンダー)してもらったものに、日本で歌をかぶせたもので、カラオケでレコーディングする世界初のものであったという。「幌馬車の唄」は、日本統治時代の台湾にも伝わり、1930年代に流行した。侯孝賢監督の台湾映画「悲情城市」(1989年ベネチア映画祭グランプリ受賞映画)の中で、死に赴くに際し歌った別れの歌として、獄中での合唱シーンがある。 「片瀬波」 作曲家として池田の名が最も知られることになったのは、パーロホン時代に高橋掬太郎に依頼した「片瀬波」(作詞:高橋掬太郎、作曲・編曲:池上敏夫)1933年(昭和8年4月)であり、当時コロムビアから「酒は涙か溜め息か」1931年(昭和6年)(作曲:古賀政男、歌:藤山一郎)の大ヒット曲で作詞家デビューを果たした高橋の才能に惚れ込み、一緒に仕事をしたいと、高橋の上京を熱心に勧める手紙を度々送っている。当時の手紙の中で池田は「『片瀬波』はちょいと良きものだと思ふんだけれど、会社では大したことがないと思ふのか、B面につけてしまった。」とこぼしていたが、結果はA面の「美はしの春」よりも「片瀬波」のほうが有名になった。高橋掬太郎は後に「彼の手紙は、その書体にもその文体にも、独特の趣きがあって、私はその一信毎に、どんなに魅力を感じたか知れない。ふたりは仕事上の仲間であったが、ふたりの友情は、つねに仕事を超越し、しかも仕事の上において一層しっかりと結ばれていた。」と記している。 「並木の雨」「雨に咲く花」 1933年(昭和8年)夏、パーロホンが吸収されコロムビアに移った池田は、すぐにいくつかの作品を発表したが、どれもあまり評判にならなかった。当時のことを、「迎へられた条件は悪くないけれど、まだ何んとなく周囲の空気に親しめないでいる。」と池田は高橋への手紙に記している。1933年(昭和8年)10月高橋が上京。すると、1934年(昭和9年)の「並木の雨」(作詞:高橋掬太郎、作曲・編曲:原野為二、歌:ミス・コロムビア)や、1935年(昭和10年)の「雨に咲く花」(作詞:高橋掬太郎、作曲・編曲:池田不二男、歌:関種子)(新興映画「突破無電」主題歌)などのヒット曲が次々と生まれた。高橋掬太郎は当時の事をこう記している。「私の胸底に最もなつかしく浮かぶのは池田不二男の面影…私の作詞を特に好んで作曲してくれた。実に抒情的ないい曲を作った男…彼のために詩を作ることを無上の歓びとし…」「彼はその頃自由ヶ丘に住んでいた。私は殆ど日曜毎にその家を訪ね、詩想を語り、また彼の新作の曲を聴かせて貰ふのを愉しみにした。私はその頃蒲田の志茂田町でアパート住ひをしていたが、その狭い一室へ彼も時々訪ねて来てくれた。」 しかしこの後、日中が戦争への様相を是して行く中、次第に人気を得ていた「雨に咲く花」は内務省の検閲係から時局にそぐわないとされ、発売禁止となる。それを受け、1937年(昭和12年)支那事変中に、同じ高橋菊太郎により歌詞をホームソング調に書き換えた「日暮の窓で」(歌:淡谷のり子)が翌年再発売されている。歌手の東海林太郎は、この曲のメロディーの原曲は、ウォッカの箱に印刷されていたロシア民謡であると話している。1960年(昭和35年)、「雨に咲く花」は井上ひろしの歌で再びヒットし、「並木の雨」とともにリバイバルブームのはしりとなった。1990年(平成2年)のアメリカ映画(20世紀FOX)アラン・パーカー監督「愛と哀しみの旅路 (COME SEE THE PARADISE)」では、この「雨に咲く花」と、1933年(昭和8年)の「恋の鳥」(作詞:久米正雄 、作曲・編曲:原野為二、歌:荘司史郎=東海林太郎)が挿入歌となっている。 「あなたのあたし」 「あなたのあたし」(作詞:山崎謙太郎、作曲:原野為二、編曲:仁木他喜雄、歌:杉狂児、市川春代、松平晃)は、1934年(昭和9年)の日活映画「花嫁日記」の主題歌としてヒットした。池田は当時流行していたドイツ映画「会議は踊る」の主題歌の楽譜からヒントを得て、この曲を作ったと言われる。「『ちょっと、ちょっと』と彼は私を窓ぎわに引っぱって行った。そしてこの楽譜を裏向けにして、ピッタリと窓ガラスにくっつけて、『ほら、これをよんでご覧なさい。”あの日から あの日から あなたのあたしよ”と歌えるでしょう。』と自分の作った曲を歌った。まさか音符がその通りになるわけではないが~自分で言ってにやにやと笑うところがなんとも好感を持てた。」と、コロムビアの作詞家 藤浦洸は振り返っている。この曲は当時フランスでもリュシエンヌ・ボアイエが仏訳して、一流オーケストラによる録音をしている。 「花言葉の唄」 1936年(昭和11年)新興キネマ「初恋日記」の挿入歌「花言葉の唄」(作詞:西條八十、作曲:池田不二男、編曲:仁木他喜雄、歌:松平晃、伏見信子)は、当時コロムビアに再入社した西條八十が歌詞を手がけており、映画撮影中に急遽1曲必要になったと池田から頼まれ、大急ぎで作詞したものだという。「咲いたらあげましょあの人に」のフレーズは、ちょっとした流行語になる程ヒットした。編曲の仁木他喜雄は、池田の作品を含め多くの楽曲の編曲を担当しており、池田は仁木と最も気が合い、仁木を深く信頼していたという。また、6歳年下で「花言葉の唄」を歌ったコロムビアの花形歌手、松平晃とは旧制佐賀中学の同窓であり、親友であり、作曲家と歌手の間柄であった。松平晃は特にこの曲を好み、1961年(昭和36年)の松平の葬儀では、参列者がこの歌を斉唱し見送っている。池田は、同窓の友であったためか、歌手の中では松平晃を一番愛していたという。これが池田の最後のヒット曲となった。
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